メルマガ:【 明治維新 】の閑話休題 
タイトル:【 明治維新 】の閑話休題 第1章  2006/11/22


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          【 明治維新 】の閑話休題     


   第一章  【【 志士の心を癒した遊里の華 】】

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明治維新に関心のあるみなさん、こんにちは。

最近ニュースで、高校の必修科目である世界史、日本史を、
受験戦争に勝つために教えていなかった学校があるとの
報道がありましたね。

歴史があるからこそ、今があります。
もちろん、過去のことばかりにこだわっていても、
未来は開けていかないでしょう。
しかし、基礎的な知識を身につけることを怠って、
そこからの人生を良質なものにできるでしょうか?
良い大学に入れれば、歴史の知識は必要ない。。。
そんな考えの大人達に指導される子ども達がかわいそうです。

人生の中で「無駄」なことは、何もありません。

大人がそれを子どもに教えてやらないと、
切り捨てが当たり前の次世代の大人たちが育つでしょう。

そんなことを考えて、このメルマガを発行しようと思った・・・
のでは、ありません(笑)

ほんの、趣味・・・です(笑)

明治維新については、本当にいろいろな読み物が
いろいろな切り口で書かれていますよね。
流れも、起こった出来事も、登場人物もご存知の方が多いでしょう。
そこで、このメルマガでは、ちょっと外れて、
歴史的事件の裏側にある、ちょっとした裏話(?)を
紹介していこうと思った次第です。

明治維新について、あまり良く知らない方でも
楽しんでいただける、軽い読み物です。

ツウの方は知っている裏話かもしれませんが、
噂話は、ちょっとずつ違うものです(笑)
ご存知の逸話との違いを見つけていただければと思います。

前置きが長くなりました。

創刊号は、この話題からです。


第一章  【【 志士の心を癒した遊里の華 】】

☆☆ 「外助の功」もあった、勤皇芸者たち ☆☆


尊穰運動まっ盛りのころ、長州藩士の2〜3人が、
高杉晋作と井上馨にこんな申し入れをした。

朝廷はじめ藩侯なども、日夜、攘夷に苦心されているのだから、
われわれも妓楼や料亭に遊んで、国事を談ずることを慎もう。
今後もしそういうことをすれば、詰腹を切らせるから盟約しろと迫った。

これを聞いた晋作は憤慨し、
「われわれは外国公使館を襲ったりして攘夷の実行に命をかけているのだ。
切腹を恐れて女郎買いもできないような軟骨漢ではない」と言って
井上をうながし、さっさと祇園へ出かけていってしまった。

たしかにこの当時、尊皇攘夷運動の大物といわれた者ほど、
遊里で豪遊し、暴飲放論を常としていた。
遊女や芸者と遊ぶのは、なにも尊攘志士にかぎったことではないが、
いつ敵に襲われて落命するかも知れない彼らが、
女や酒にひとときの安らぎを求めたのは無理もないことだった。

都合のよいことに、そういう女のいる場所は、
あんがい幕吏や暗殺者の目をごまかしやすく、
なじみの女は連絡役にも役立った。

こうした女たちと志士の関係では、桂小五郎(木戸孝允)と
京の三本木吉田屋の芸者幾松とのことはあまりにも有名だ。
新選組に不意を襲われたとき、幾松は桂を床の下から逃がし、
自分は平然と舞いをして踏みこんできた新選組を
唖然とさせたのだから、度胸も男以上といえる。

乞食に身をやつして二条大橋の下にひそむ桂のために、
食べ物や下着をはこぶとき、幾松は情報となるべき町の噂まで
ちゃんと伝えていた。

のち幾松は、明治新政府の参議となった木戸の正夫人となるが、
これは単なる恋愛感情や苦労を共にしたという一体感からだけではない。
つつましく上品に育った素人娘などには、身体を張った商売女である
幾松のような気働きや芯の強さというものがない。
そういう点が、政府の高官となった男にとっては、
内助だけでなく外助の功としても頼りになったのである。

その証拠に、伊藤博文は志士時代になじんだ馬関芸者のお梅という女性を、
最初に妻とした士族の娘と別れで正夫人にしている。

和歌山藩出身で、のち外務大臣となる陸奥宗光も妻が病没するや、
すぐ新橋でなじんだ小鈴という芸者を落籍している。

明治時代に二度も首相となった山県有朋の再婚相手も
新橋の芸者だった老松という女である。

幕末の花柳界では、国事に奔命する志士を助け、愛人にもつのが誇りで、
勤皇芸者とたたえられた。

井上馨は英国へ密航留学するとき、君尾という祇園芸者から、
懐中鏡を儀別にもらった。
帰国後、藩内の保守派に闇討ちされたとき、
その鏡が腹部への致命的な一刺しを防いでくれたという。

「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」という唄で名高い
高杉晋作の愛妾は、下関のおうのという芸者だった。
おうのは少し愚鈍だったので、志士仲間が、
「高杉さんほどの人が、あんな女」と言うと、晋作は
「このぼんやりしたところが、おれには心が安まっていいのだ」
とのろけたという。

晋作が二十八歳で天折した後、おうのは梅処尼という尼になり、
42年間、晋作の墓を守った。
やはり彼女も芯は堅かったのだ。


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@人@ 発行人  山中 正敏
@人@ 意見・感想・質問 yamcyu@yahoo.co.jp

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