メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:2006年、夏のフランドル(オラン・ベルギー)旅行の印象/オランダ・総集編2−2(修正版)  2006/10/15


[参考情報]2006年、夏のフランドル(オラン・ベルギー)旅行の印象/オラン
ダ・総集編2−2(修正版)
2006.10.15

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■誤字というよりも、表現上で不適切な部分が数箇所あったので「修正版」と
して送信します。お騒がせしました。

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(世界におけるヨーロッパ文化の優越を決定づけたオランダ・ベルギー思想)

人間の歴史は「主権」(領土・経済・資源などを利己的に占有する欲望と支配権
力)を巡る弱肉強食の闘争(戦争・殺戮・虐待・残虐行為)の囲い込み競争の歴
史であり、この強烈なマグマの本性(生物の生命力の本源的性質)は人類が生存
する限り未来永劫にわたり変わることはないと考えられます。まず、我われ人
間は、生命にかかわるこの過酷な現実(リアリズム)を直視することから全て
を始めなければなりません。ここで君主による統治の絶対性を前提とするマキ
ャベリズムを持ち出すのは適切でないと思いますが、仮に戦争・殺戮・虐殺・
テロリズムなど「人間の本性にまつわる蛮行」を重篤な病に喩えるならば、人
間の歴史を冷静に眺めて「この種の病気」に容易に罹らぬ工夫、そのような意
味で免疫力を高める工夫に自覚的に取り組む時が人間の知恵の出しどころで
す。

つまり、それが「主権者」たる一般市民のマキャベリズムということです。一
方、プロの「政治権力者」は、このような市民(国民)サイドのマキャベリステ
ィックな眼に容易に見抜かれぬよう絶えず気を配りながら、それに対抗する、
したたかなマキャベリズムを発揮します。例えば、2006..10.14付の朝日新聞は
「『安倍答弁』持論使い分け」という記事で、“安倍首相は13日までの衆参議
両院予算委員会で、歴史認識や安全保障などでの持論をめぐり「封印」するも
のとしないものを丁寧に分けて発言した”と分析しています。

具体的には、「過去に文書化された政府見解」、「世論一般の批判的な雰囲
気」、「持論を堅持し更に発展させ得る可能性」、「持論の展開にとって有利
な世論の風の吹き具合」(マスメディアの支持率調査の結果など)という四つの
要因を天秤にかけながら、不利な言質を取られぬよう巧みに振舞っています。
それが「戦争責任を巡る見解や核武装論→変節」、「A級戦犯への解釈→堅
持」、「靖国神社への首相参拝→内外への無言戦術の宣言」(当然ながら、こ
の問題にかんしては主に中国サイドの政治的な事情も絡んでいると思われま
す)の選択となって表れた訳です。

そして、このような政治権力者サイドのマキャベリズムにとって有利な雰囲気
づくりに利用されるのがテレビなどの大方のマスメディア(むしろ、日本の現
況は嬉々として利用して頂く政府御用達マスメディア?)です。なお、「過去
に文書化された政府見解」は「アーカイブの役割」(政治権力の暴走に対する
一種の歯止めの役割)に関連することです。この論点の詳細は下記のブログ記
事★を参照してください。
★toxandoriaの日記、[情報の評価]アーカイブの役割とは何か?(1)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050306
★toxandoriaの日記、[情報の評価]アーカイブの役割とは何か?(2)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050307
★toxandoriaの日記、[情報の評価]アーカイブの役割とは何か?(3)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050308
★toxandoriaの日記、[情報の評価]アーカイブの役割とは何か?(4)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050309
★toxandoriaの日記、[情報の評価]アーカイブの役割とは何か?(5)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050310

このような訳で、ごく一部のモラル・ハイグラウンドな市民たちが、ただお題
目のように「平和」を唱え続けるだけで世界の平和を継続することは困難で
す。民主主義社会の「主権者」である我われ一般市民が、「人間の本性にまつ
わる蛮行の種」を蒔き散らそうとする邪悪な政治権力者(=“追憶のカルト”
という名の亡霊)が出現せぬように、「憲法の政治権力者に対する授権規範
性」(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050519)を盾にして彼らの
言動を厳密にモニターすべきなのです。不幸にして、もしも、そのような権力
者が選ばれてしまった暁には、彼らが絶対に暴政へ走らぬように民主主義国家
の「主権者」である我われ一般市民は、常に自覚を持って個々人の精神環境レ
ベルでの闘いを続行すべきなのです。現在、我われが享受している「平和と民
主主義」は、エラスムス、グロティウスらの慧眼と彼らが生命を賭した闘った
努力の賜物であることを思い起こすべきです。そして、ここで重要なキーワー
ドとなるのが「公正」の概念です。これは、ブッシュ大統領が好む言葉である
ジャスティス、つまり「正義」と置き換えてもよいと思います。

つまらぬ喩えになりますが、あらゆる接客業の世界で認識されている厳格な基
本ルールに「先着順の公正」というものがあります。つまり、一時にタッチの
差で殺到した来客があった場合でも、瞬時に来客の順番を見分けて、先着順に
丁寧に接客しなければならないというルールです。これが実行できなければ、
いずれは、どんなビジネスでも上がったりとなります。現在、民主主義社会の
根本的なルールとして理解されている「法の支配の原則」も、ごく大雑把に言
ってしまえば「先着順の公正」に類する素朴な概念です。これを一部の政治家
や政治学者は「モラル・ハイグラウンドな精神の高み」と表現する場合がある
ようですが、素朴な真理を余り高踏に持ち上げて美辞麗句で飾り立てると分か
りにくくなってしまうようです。

ともかくも、考え方しだいでは、我われ人間は、このように素朴な「法の支配
の原則」(=戦争や殺し合いを避けて、我われの平和な社会生活・経済生活を
持続・発展させて行くためには、国益や個人益に関して、一歩先を譲り合う精
神を大切にすべきだという厳格な基本ルール=議会制民主主義と国際法の根
本)を人類共通の公正・正義を実現し、戦争の多発を防ぎ、平和を実現し継続
するために必須の法理として高く掲げるべきであることを学び取るために、お
ぞましくも数え切れぬほど夥しい数の殺人・戦争・虐待・拷問・テロなどを飽
きることなく繰り返してきたことになる訳です。

今、我が国では「日本国憲法」を改正しようとする動きが大勢を占めつつあり
ますが、仮に改正へ踏み切るとしても、先人らの血みどろの戦争の歴史の中
で、我が国が漸く獲得し得た「平和原理主義的な理念」を捨て去ることについ
ては慎重になるべきです。見かけ上のパワー・ポリティクスのみに目を奪われ
ることなく、歴史から得た知恵に従って国家と人間の分を守ることを恥ずべき
ではないと思います。更に言えば、先に述べたような意味で、マキャベリズム
は「君主」のためだけにあるのではない、ということです。恐らく、後述する
オランダ・ベルギー思想の巨人たち、エラスムスもグロティウスらも、この辺
りの機微は見ぬいていたはずです。

また、ここでは、「皇帝権・王権・領主権」のみならず「市民権」といえど
も、それは「生命力の本源的性質」のマグマに支配されるものであるから、も
しも一切のコントロールなしで自由放任のまま捨て置かれた場合は、この「市
民権」すらも暴走する可能性が大きいと考える立場を取ります。従って、人間
の存在を単純な「性善論」で論ずることの限界はここにあることになります。
しかしながら、人間は古代ギリシャの古典的「民主主義思想」(これは男女差
別や奴隷制を当然とする未成熟な民主主義ではあったが…)によって、この
「主権」(支配権力)を巡る闘争が、ある程度は制御可能だという知恵を手に入
れることができました。

ベルギーの歴史家ピレンヌの「中世都市起源論」及び「商人定住説」によれ
ば、12〜13世紀ころの「フランデレン(フランドル)地方と北イタリア」(ヨー
ロッパにおけるローマ時代の商業復活の二大基地)で近代資本主義の萌芽(資
本家の勃興)が見られます。特に、フランデレン地方では毛織物工業で巨額の
利益を得た商人たちが都市へ集中してブルジョア階層が逸早く生まれました。
やがて、彼らは自らの勇気・才覚・努力で得た自立的な経済力を武器に領主に
対して「市民権」と「自治都市の権利」を要求するようになります。これが、
今に繋がる、グローバルな交易経済を背景とした「民主主義意識」の誕生で
す。

一般に現代の民主主義の根本とされる「法の支配の原則」は、絶対的な権力を
持った国王に対しても慣習法(コモン・ロー)を遵守させようとする厳しい原
則で、これは主に英国で発達したと理解されており、その契機となったのは
「マグナ・カルタ(大憲章)」(1215)です。それは、英国王ジョンが領土問題
や戦争に関する暴走で国益を害したことに対する、大商人と封建貴族たちの異
議申立てです。大筋は、このような理解で良いと思います。しかし、それはフ
ランデレンの経済的自立を自覚したブルジョア市民たちのグローバルな交易経
済を背景とした要求とは少し意味合いが異なっていたようです。

ともかくも、このようにして芽生えた「法の支配の原則」を「主権者」たる王
に対しても遵守させようとする被支配者側の意識(フランデレンの場合は「市
民意識」)は、権利請願(英国、1628)、ピューリタン革命(英国、1642〜164
9)、名誉革命(英国、1688〜1689)、権利章典(英国、1689)、ヴァージニア
権利章典(米国、1776)、アメリカ独立宣言(1776)、フランス人権宣言(178
9)、ワイマール憲法(独ワイマール共和国、1919)などの歴史を経ることで世
界中の国民国家における市民レベルで共有されるようになった、というのが教
科書的な説明です。

しかし、「法の支配の原則」と「自立的な市民意識」の関係について、一つの
重要な出来事が見落とされています。それは、1477年にネーデルラントのブル
ジョア市民たちがブルゴーニュの女伯爵マリーに『大特権』の要求を突きつけ
たという歴史的事実です。これは、イギリスの特権的な階級の人々(国王の家
臣の中で特権を持つ人々)がジョン王に突きつけた「マグナ・カルタ」(大憲
章/1215)や「ピューリタン革命」(1642〜1649)に劣らず、現代民主主義の基
礎となった重要な出来事です。

その内容は、1215年に英国ジョン王が突きつけられた「マグナ・カルタ」に匹敵
するどころか、それを遥かに飛び越えて現代の民主主義国家のフレームにも近
い内容だったのです。シャルル・ル・テメレール(突進公)が「ナンシーの戦
い」で急死すると、ブルゴーニュ公国の重い頚木から開放されたネーデルラン
ト市民の代表たち(大商人ら)が以下のような内容の市民の特権(●)をマリ
ーに認めさせました。

この「大特権」の要点をまとめると「ネーデルラント各州の完全な自治、市民
主権(主権在民)の承認、可能な限りの中央政府の権限の制限」ということにな
ります。そして、英国の「マグナ・カルタ」との根本的な違いは、「マグナ・
カルタ」では「立法=市民、予算=議会、軍事=国王」の形で主権を分担しま
すが、このネーデルラントの『大特権』では、これら三つの権限がすべて君主
(マリー)から剥奪され市民側(大商人たち)へ与えられたということです(こ
の出来事の前後の歴史的経緯については、下記のブログ記事★を参照)。
★『toxandoriの日記、2006年、夏のフランドル(オランダ・ベルギー)旅行の
印象/オランダ・総集編1
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060928

●代表権なくして課税なしの原則を徹底
●各州の承諾なしの新税は認めない
●マリーは各州の承諾なしに戦争を行わない(行った場合、各州はその戦争経
費を負担しない) 
●マリーは各州の承諾なしに結婚できない 
●重要な各州・行政府の役職は地元の人間に与える 
●公用語はオランダ語とする 
●最高裁判所を設置し、裁判の控訴を認めて市民の人権を擁護する

ともかくも、このようなネーデルラントの「市民意識」の土壌があったからこ
そ「オランダ独立戦争」(1568〜1609)を遂行するという強烈な意志の結束が生
まれ、それから時代を下ってからのことですが、“国際法の父”グロティウス
の理念が結実(1899年、グロティウス“没後約250年”に第1回ハーグ平和会議
で“国際紛争の処理に関する条約”成立したことによる)して「常設・仲裁裁
判所」ができ、これを引き継ぐ形で第一次世界大戦後の1922年に国際平和維持
機構として、常設の「国際司法裁判所」が開設され、同時に「国際連盟」(現
在の国際連合は、この精神を継承している)が創設されたのです。

漸くここで、我われ人類は、革命的・抵抗的戦争という暴力的な手段に代わり
に「主権」の暴走をコントロールしようとする世界市民の意志を実現するフレ
ーム、つまり「法の支配の原則」(=法の下の平等/国家体制の次元で言え
ば、法の支配の原則に従う議会民主主義型の国家ガバナンス)を全世界的に実
現する形と仕組みを手に入れることができたのです。

そして、このようなネーデルラントの市民意識のなかに深く沁み込みつつ「法
の支配の原則」と「国際法」を「国際司法裁判所」と「国際連盟」(国際連
合)の形で具体化するための触媒的な役割を果たしたものこそがエラスムスの
説いた「中庸の感覚」(=寛容の精神)です。従って、もし、ネーデルラント
におけるエラスムスの「中庸の感覚」(=寛容の精神)の伝統精神が存在しな
ければ、グロティウスの「国際法」も、あるいは「法の支配の原則」の意義も
世界中の人々に理解されることはなかったかも知れません。

他方、ポルトガル王国、ハプスブルグ時代のスペイン、イギリス、フランスな
どが世界の海を股にかけた大航海時代、及び近世オランダの黄金時代(16世
紀末〜17世紀/前半は、ほぼオランダ独立戦争の時代と重なる)、レオポルド
2世(在位1865-1909/アフリカ・コンゴ植民地での過酷な非人道的搾取が国の
内外から激しい批判を受けた)時代のベルギー王国などが、過酷な植民地政策
で行った残虐な殺戮と蛮行の歴史を想起すると、同じ彼ら欧米人の歴史プロセ
スの中から「法の支配の原則」と「国際法」という現代民主主義社会の重要な
根本概念が同時並行的に生まれ出たことが奇異に感じられることがあるかも知
れません。

しかし、まことに残念なことですが古代中国・インドや日本を含めたアジアの
哲学・法思想など、いわゆる法制史が取り扱うべき分野の中から、この「法の
支配の原則」に代わって権力者サイドの「主権」(領土・経済・資源などを利己的
に占有する欲望と支配権力)の暴走を適切に制御するための知見(オルタナティ
ブな概念)が生まれていないこと、あるいはそれを可能とするような歴史の積
み重ねが存在しなかったことが現実です。

ただ、日本の歴史を概観すると室町〜戦国期の自治都市・堺におけるグローバ
ルな交易文化(自立した市民意識の萌芽)、室町期の茶道・華道・歌道などの
数奇文化、あるいは江戸期の実践哲学というべき陽明学・心学・経世論などの
中に、あるいは明治期以降の岡倉天心や鈴木大拙らの傑出した視野と慧眼の中
には、今や行き詰まりを見せつつあるアメリカ型グローバリズムの中で苦悶す
る「法の支配の原則」(=西欧の精神文化における最高度の到達点)を補完し
得る知見が、いくつか垣間見得えるように思われますが、この検討は先に譲り
ます。

ところで、中国古代の春秋〜戦国期に排出した諸子百家の中の法家・儒家など
の流れを受け継いだと考えられる江戸期の朱子学にしても、結局は、アジア的
(=アジアの頂点に君臨した中華帝国を中心とする柵封体制を補完するシステ
ムという意味)な「有司専制国家」(=官僚専制国家)の一つであったと見なす
ことができる江戸幕府の政治権力を支える道具としての枠組みを超えて、全世
界に通用する普遍的な法理・法哲学となることはできませんでした。

そして、古来から(神話時代いらい)の日本伝統のものと思われている天皇制
が、実は中華帝国(中国)・皇帝の権威をライバル的に意識して対置した専制国家
主義的な「正統性の創作」であったことは周知のとおりです(だからと言っ
て、現在の平和的な民主国家・日本の象徴としての天皇の役割が否定されるべ
きものではありません)。その上、江戸幕府の鎖国政策によって、日本は世界
の近・現代への流れ(=自然法思想から導かれる“法の支配の原則”によって
世界の諸地域が近代民主主義体制へ移行して行く時代の流れ)に乗り遅れるこ
とになった訳です。

<注>江戸幕府の鎖国政策
…江戸幕府は慶長8年(1603)の開府から慶応3年(1868)の大政奉還まで265年続い
た。その間、鎖国政策は寛永16年(1639)からペリー来航(1853)までの将軍15代
の間、約215年にわたり行われた。

別に言えば、心情的に(ホンネの部分ではという意味)中華帝国の正統性に頼
り切っていた江戸幕府が、世界のリアリズムを敢えて無視して自己弁護的な一
人よがりのリアリズムを創作した(でっち上げた)のが江戸幕府の鎖国体制
(一種の自閉的ナショナリズム)であったと見なすことができます。ただ、忘
れてならないのは「古事記伝」を著した本居宣長が注目していた「もののあは
れ」や「やまとだましひ」の本来の意味は、そのままでも掛け替えがないほど
豊かな日本の風土の中から、自然発生的に麗しい国の形や倫理感、そして奥ゆ
かしく愛すべき国民の心性が生まれてくるという、いわゆる日本文化の根底に
ある「うつろひ」にまつわる芳醇な美的感覚であったということです。

ところで、この日本独特の「うつろひ」の感覚は、日本人のアナログ的(非デ
ジタル)な感性を最大限に引き出した、非常に卓越した情報処理作業(伝達&
プレゼンテーション能力)だと見なすことができそうです。そして、その典型
的な表出の形は、例えば和歌、連歌、短歌、俳句、茶道などであり、これらの
文芸作法が持つ大容量の情報発信進力、瞬発的な情報発信力、高品質の相互情
報伝達能力(高度の融和力を秘めたコミュニケーション能力)は、現在の最先端
を走るIT・デジタル技術による情報伝達能力の比ではありません。

恐らく、これは、人間の脳内表象の利用についての全く異なった発想がもたら
す、欧米文化と日本文化の質的な差異ではないかと思われます。オランダ人
が、江戸時代の初め以来およそ400年にわたり長らく日本文化に対して並々なら
ぬ関心を持ち続けてきた理由の一つは、単なるエキゾシズムへの憬れというこ
とに止まらず、彼らには、このような意味できわめてユニークな日本文化の真
髄をありのままに(=日本語をとおして)理解できる感性があるのかも知れま
せん。なお、400年にわたる日蘭交流史については、別途、「オランダ・総集編
4」で詳述する予定です。

しかしながら、このような日本古来のクオリア(参照、http://www.qualia-man
ifesto.com/index.j.html)的な感覚(融和的な相互情報伝達能力)が、明治維
新〜太平洋戦争期の「有司専制国家」を支えた政治家・官僚・軍人・御用学者
らによって、それとは全く異質な偏狭でナルシスティックなナショナリズム感
覚に作り変えられてしまったことは良く知られているとおりです。このような
訳で、まことに惜しむべきことながら、日本を含めたアジアから西欧の自然法
思想に代わり得る、全人類にとって普遍的な政治哲学や法思想あるいは法哲学
などが生まれることはなかったのです。

なお、この稿で取り上げるべきものではない全くの蛇足の議論となりますが、
日本古来のクオリア的な感覚(融和的な相互情報伝達能力)が、日本の歴史上
のどの時点で決定的に偏狭なナショナリズムの道具へ書き変えられたかを検証
することは重要な課題だと思います。それは、必ずしも、常識的に考えられて
いるように明治維新期以降の「富国強兵策→日本軍国主義化→太平洋戦争突
入」の悲劇的な流れの渦中で特異的に生まれたものではなく、もっと古い日本
史の中で、しかもある程度長いプロセスの中で仕込まれたものと考えるべきか
も知れません。

そして、仮にそれを日本史の中に仕込まれた、既述の「追憶のカルト」だと仮
定すれば、実は、約60年前の日本の悲劇は、それが明確に息を吹き返したとい
うことであり、現在の日本の政治が急速に奇妙に捻れた形で「生政治」の時代
へ突入しつつあるように感じられるのも、あるいは若年層の間で“慎太郎的な
右寄りのアジテーション”が熱狂的に歓迎されるのも、再び、それが息を吹き
返しつつある兆しなのかも知れません。いわば、過去5年間の小泉政権の中で
培養された、そのような「追憶のカルトのクローン生殖細胞」が“安倍政権の
子宮に着床した段階”かも知れません。

考えてみれば、このような「悪しきクローン細胞」は日本のみならず現代世界
のあらゆる体制の国家(それが民主的国家であるか非民主的国家であるかの違
いを超えて)の中で、それぞれの国の事情に応じた形で抱え込んでいます。時
折、それは過激な右派活動の姿で間歇的に目覚め、各国の社会で波紋を広げる
ことを繰り返してきました。そして、それが極端にグロテスクな一国型の姿で
噴出したのが現在の北朝鮮問題だと思われます。

当然ながら、今は「法の支配の原則」(国際連合)の枠組みの中で人知を尽く
したギリギリの解決策への取り組みが行われていますが、唯一の外科手術的な
緊急処置として、この「悪しきクローン細胞」を意図的に蘇生させ“有志連合
化する”という「イラク戦争」で使われた「悪魔のシナリオ」が、今度は秘密
裏に「法の支配の原則」を全く無視する形で起動する可能性が小さいとは言い
切れません。この問題では、北朝鮮へ自らの政権の命運を賭けて公的援助を拡
大しつつ多くの自国企業へ積極的な対朝投資を奨励してきたため抜き差しなら
ぬジレンマに嵌ってしまった中国政府(現政権)の微妙な立場が気がかりで
す。恐らく、ロシアにもこれに似た事情が隠れていると思われます。従って、
この問題への対応は、北朝鮮のみならず中国自身の現政権の土台を揺さぶる悩
ましい問題へ発展する可能性があります。もしそうであるなら、それは日本と
の“靖国問題”以上の危機的要素という訳です。

恐らく、今の中国は北朝鮮というヴァンパイア(吸血鬼、あるいは業病を背負
った疫病神)に取り憑かれ現政権の体制が北朝鮮の病巣と一部癒着しつつある
ような立場であり、しかも陸続きで国境を接するという、その地政学的にも極
めて接近した繋がりを考えれば、中国の軍事パワーによる電撃的な粛清作戦す
ら視野に入れざるを得ないかも知れません。しかし、そうなれば、周辺各国へ
の飛び火による被害も拡大する恐れがあり、更にイランなどへ紛争が拡大すれ
ば、恐らく世界は19世紀以前の際限なく戦争・紛争が連鎖した時代への後戻り
を覚悟しなければなりません。しかし、だからこそ我われ一般市民の一人ひと
りが、この危機的な状況は、日本の政治状況のあり方も含めて、それはまさに
自分自身に直結する問題なのだというリアルな感覚を取り戻す必要があるので
す。

ともかくも、今まで見てきとおり、このような世界各国の「追憶のカルト」が
仕掛ける「悪夢のシナリオ」の出現を永久に封じ込めるためにこそ、16世紀ネ
ーデルラントのエラスムスが着想した“善玉のコレステロール”ならぬ「善玉
のクローン細胞」が、中世〜ルネサンス〜近世〜現代というヨーロッパ史の流
れの中でエラスムス、グロティウス、スピノザ、ホイジンガ、ピレンヌらのオ
ランダ・ベルギー思想界の巨人たちが息長く命がけで練り上げきた共通概念と
して、つまりネーデルラントの「寛容の精神」として、ヨーロッパの「文化と
法制の中枢部分」にきわめて意識的に組み込まれたことが歴然と理解できるは
ずです。従って、現代世界におけるヨーロッパ文化の優越を決定づけたのはオ
ランダ・ベルギー(ネーデルラント)の思想であると見なすことができる訳で
す。

(補足)現代社会の「生政治」的な現象の広がりについて

これまで見てきたことから、我われは、現代の世界が権力者サイドの「主権」
(領土・経済・資源などを利己的に占有する欲望と支配権力)の暴走を適切に制御
するための知見を具体化するために「法の支配の原則」に従うべきであるこ
と、そして国際関係と国際紛争の抑制・調停・解決のために「国際法」が存在
すべきであることを一日たりとも忘れるべきではないことが理解できる筈で
す。別に言えば、現代社会において「主権の暴走」を制御できるのは「法の支
配の原則」以外にあり得ないということを市民社会のメンバー一人ひとりが持
続的に自覚する必要があるのです。

つまり、このような意味で現代の民主主義社会は、市民一人ひとりが精神的な
意味での自覚的な闘いの中で掴み取らねばならないものです。本来、エラスム
スが「オランダ独立戦争」の悲惨な現実(=戦争・戦闘・殺戮・虐殺・虐待)
の推移の中で「寛容の精神の重要性」を自覚できた理由は、この点にあるはず
です。エラスムスの壮絶な思考の精華(=最も美しく優れた部分)だけを安易
に掠め取るような態度は許されないのです。このため、我われ一般市民が法の
存在意義とその役割を忘れ去ったり、法を無視したりできないように、法学
者・弁護士などの法律家は「法の支配の原則」を積極的に市民社会へ普及させ
るよう絶えず努力すべき大きな義務と役割を担っている筈なのです。

ところが、実際には、そのような確固たる理念を保持し続けている法律家は少
なくなっています。それどころか、米国流ロー・ファーム(Law−Farm)の影響
を受けたビジネス偏重のリーガル・マインドが流入するとともに、真実と正義
判断の所在は二の次として、アグレッシブに裁判(攻撃的な裁判)での勝敗だ
け、つまりファイトマネーのために競うことだけが全て(=最高善)であるか
のような、いわば市場原理主義的な風潮が法曹界(特に弁護士の世界)でも広
がっています。従って、これは「法の支配の原則」の危機的な状況と理解する
ことができます。我々は、ここから現代社会では法そのものが溶解するかのよ
うな一種の眩暈感に襲われることさえあります。多重債務者などの弱者を餌食
にする悪徳弁護士の跋扈が目立つのも気になるところです。

また、現代社会では「法の支配の原則」が機能する法社会(規範社会)で生き
抜くための基本要件である「人間どおしの社会的コミュニケーション能力」と
「ある程度の長さの言説の理解能力」及び「ある程度の長さの文章の読解能
力」が劣化しつつあるような気配が感じられます。この一種の日本社会の幼稚
化とも言える傾向は、年代層の違いなどを問わず広がりつつある一種の社会的
な病理現象です。この現象の背景は、恐らくテレビ・新聞・雑誌などマスメデ
ィアの劣化・幼稚化と強い相関を持っているように思われます。

終ったばかりの「小泉政治なるもの」がワンフレーズ・ポリティクスとして国
民一般から大いにもて囃されたことは記憶に新しいところです。今、それは安
倍政権へのバトンタッチで再び幼稚な言説を代表するような、何事につけ、ど
っちつかずの曖昧なスタンスの「美しい国づくり」というワンフレーズに代わ
ったようです。そして、大方の日本国民は実用的(プラグマティック)な意味
での“政府の継続性”だけが民主主義国家における唯一で最高の価値だと思い
込まされているようです。ともかくも、法とコミュニケーションを巡る、この
ような一種の関係性の揺らぎ現象が引き続いて見られる背景には、現代社会が
“目の眩むような生政治(バイオポリテクス)の世界”へ入ったという現実が
あるようです。それは、日本国民の多くが一種の「空間識失調」の状態に嵌っ
たと言うことです。

「生政治」(バイオポリティクス/Biopolitics)は、ミシェル・フーコー(Miche
l Foucault/1926〜1984、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%
E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC)が、著
書『監獄の誕生』(1975)の中で言及する主要な概念の一つです。近・現代の国民
国家の支配方法は、法制度という「外的」な基準の適用だけではなく、法制度
や恣意的な政治権力の作用を「倫理面」のみならず各個人の深奥にある「内
的」な無意識レベルまで巧みに浸透させるようになってきたと、フーコーは説
明します。

彼は、これを「生政治」と名付けたのです。後になって、フーコーは政治権力
による支配が各個人の倫理レベルまで及ぶとともに、その支配に対する「抵
抗」もまた人それぞれであるとします。やがて、この議論は、これまでの社会
集団的、マルクス主義的な社会運動とは異なる手法として、個々の人々の意識
をより尊重することを主張する新しい社会運動であるゲイ・レズビアン運動、
マイノリティ(社会的少数者)の権利の主張などと結びつくことになります。

ところで、この「倫理」が作用する人間の内面活動(意識主体が住まう精神環
境)とは何であるかを現実的に見るならば、それは「人間の社会的なコミュニ
ケーション能力」(コミュニケーション活動で表れる意識の変化・変容)の問
題ということになります。更に、その場面を個別に見れば「芸術・文化の創作
活動の現場、家庭内や教育の現場、地域社会の現場、少子高齢化・移民増加等
人口動態などが変化する局面、ITユビキタス&グローバリズム化が加速的に深
化する局面、メディア(特にテレビ番組)における政治と芸能の癒着・融合現
象の局面」などの様々な場面におけるコミュニケーションの変化・変質であ
り、そこでは、新たな、あるいは未知の形に変容したコミュニケーションの姿
が出現します。そして、この「生政治」が先鋭化した場合、それは監視、脅
迫、武力(軍事・警察・軍事)型弾圧、先制攻撃など様々な暴力の形となって、本
来は「倫理」が差配すべき、これらの人間の内面活動の場面に強制的に作用す
ることとなります。

いずれにしても、ポストモダン社会の大きな特徴の一つは、フーコーの「生政
治」が予見していたとおり、本来であれば個々の人々の個性が立ち現れるべき
「人間のコミュニケーション能力」(意識の変化・変容)が作用するデリケー
トな内部の精神環境へ、言いかえるなら、私的な「人間の精神環境の奥深く」
へ暗喩的にひっそりと、又は明示的に、あるいは傍若無人に政治権力が介入す
るということです。そして、このような傾向の深化はIT・ユビキタス社会化や
米国型グローバリズム社会の進展と無関係ではありません。仮に、このような
傾向を「市民意識の溶解現象」と名付けるならば、マスメディアは、本来のあ
るべき役割(政治権力が暴走せぬよう客観的な立場から監視すること)を半ば
放棄しています。それどころか、そのような社会の溶解現象を更に促進してゆ
くため、自らの触媒的な役割を積極的に担おうとする誘惑にも負けているのが
現代のマスメディアです。

参考まで、現在、このような観点から斬新な論考に旺盛に取り組んでいる美
学・美術史学の専門家、岡田温司氏(京都大学・総合人間学部教授)の新刊書
『芸術と生政治』(2006年7月刊、平凡社)のプロローグから、関連する部分を
一部引用(同書、p5〜6より)しておきます。

『1976年のコレージュ・ド・フランスでの講義「社会は防衛されなければなら
ない」の最後を締めくくる第11稿の冒頭、ミシェル・フーコーは以下のように
総括する。いわく、「19世紀の最も根本的な現象の一つは、権力の側からの生
の負担とでも呼びうるものであったように思われる。お望みとあればそれは、
生き物としての人間に対する権力の掌握、生物学の一種の国有化、あるいは少
なくとも、生物学の国有化とよびうるものへと向かう一定の傾向であるといっ
てもいだろう」と。…途中、略…同じく1976年に刊行が始まった未完の大著
「性の歴史」の序論「知への意志」のなかでもすでに、フーコーは、簡潔にこ
う喝破していたのである。「近代の人間とは、己が政治の内部で、彼の生きて
存在する生そのもが問題とされているような、そういう動物なのである」。30
年前にフーコーが提起した問題は、今日、乗り越えられるどころか、ますます
その真価を発揮しつつある。より大きな自由を獲得するという名目のもと、セ
キュリティの戦略が作動し、より大きなコントロールが介入しているというの
が、いつわらざる現状であろう。一方でいたるところに張り巡らされた監視カ
メラが、他方で大量に消費される医薬品が、私たちの生の様態を規制し管理
し、共通の幸福(福祉)というアイギスの盾(Aigis/ギリシア神話で大神ゼウ
スが娘アテナに与えた防具/すべての邪悪を払うとされ、楯であるとも、肩当
てまたは胸当てのようなものであるとも伝えられる/アイギスはギリシア語の
読みで、英語読みではイージス/米海軍が開発した対ミサイル迎撃システムを
装備したイージス艦の語源)のもとで徴収されたコンセンサスが、自由と抑圧
との境目をますます見分けにくいものにしている。フーコーがいち早く見ぬい
ていたパラドクスを、私たちは今も生きている。…後、略…』

今、北朝鮮の核実験という暴挙がもたらした危機意識の波紋が日本全体へ広が
る中で、日本の一部の政治家と国民層の一部(特に、現実の戦争を知らぬが故
に、恰もそれは他人事であるかのようなゲーム感覚的なノリで理解する若い世
代層)から彼らの恐るべきほど単純なホンネが聞こえてきます。いわく“北の
核実験は発足したばかりの安倍政権の追い風になった”、いわく“日本も「先
制攻撃体制を構築するため」のインテリジェント・システムを装備すべき
だ”、いわく“日本政府がイラク戦争の大義を支持したのは現実的に見て正し
い(この見解を示すのは当事者であるブッシュ政権を除けば、恐らく世界中で
日本政府だけとなっている)”、いわく“日本も、本気で核武装を検討すべき
だ”(この主張は、変節する以前の現・安倍首相の持論でもあった)、いわく“も
っとフレキシブルに軍事力の行使ができるよう日本国憲法を改正すべきだ”
云々…。

ここで見られる現象は、明らかに日本の政治権力者たちと大方の日本国民の知
的・精神的な退行現象または一種の痴呆化(太平洋戦争時代より以前への先祖帰
り)です。これこそが、日本の「生政治化」(バイオポリティクス化)がもたらす
最大の害毒です。このため、我われは、再び真摯に「法の支配の原則」が導か
れた歴史のプロセスを原初(その概念が人類共通の宝であることが漸く理解さ
れ始めた頃の出発点)から光を当て直して学ぶ必要があるのです。繰り返しに
なりますが、歴史から得た冷静な知見に従い、政治権力者がマキャベリスティ
ックに操作する見かけ上のパワー・ポリティクスの背後を見据えながら国民一
人ひとりが自らの分を地道に守るのは民主主義国家・日本にとって恥ずべきこ
とではありません。

「美しい」だけの厚化粧で飾り立てられ天空に飛翔するヌエ(鵺)の如き「追
憶のカルト」に忠誠を誓うばかりが愛国心ではなく、日本国民の一人ひとりが
冷静に分をわきまえつつ、自ら闘い取った「民主主義と平和」の中で生産活動
に励みながら、日本の「主権者」として、しぶとく生き抜くのも立派な「愛国
心」の形です。マキャベリズムは「君主」のためだけにあるのではないので
す。恐らく、エラスムスもグロティウスも、この辺りの機微は見ぬいていたは
ずです。

[予告] 「オランダ・総集編」は、未だ[総集編3]と[総集編4]があります。
そのスケルトン(予定)は下記のとおりです。これは急がずゆっくり取り組
み、早くても年内での完成をめざすつもりです。

[参考情報]2006年、夏のフランドル(オラン・ベルギー)旅行の印象/オラン
ダ・総集編3

[ドイツの反省とEUにおけるユーロコーポラティズムの可能性]

(ドイツによる「追憶のカルト」の克服=「理想」の復活による「対カルト免
疫力」の強化)

(EU理念の誕生=ドイツの反省とオランダ・ベルギー思想の融合)

(ユーロコーポラティズムの実験)


[参考情報]2006年、夏のフランドル(オラン・ベルギー)旅行の印象/オラン
ダ・総集編4

[日本に巣食う「追憶のカルト」の系譜]

(「追憶のカルト」の淵源)

(日欄400年交流史の概観=オランダ・ベルギー思想の核心を無視し続けた400
年)

(「美しい国=曖昧な偽装の美学」による「追憶のカルト復権」の危機)

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