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(ようやくパソコンの故障が直りました) f:id:toxandoria:20061014174250g:imagef:id:toxandoria:20061014174522j:im agef:id:toxandoria:20061014174621g:imagef:id:toxandoria:20061014174713 j:imagef:id:toxandoria:20061014174750j:imagef:id:toxandoria:20061014174 844g:imagef:id:toxandoria:20061014174938j:imagef:id:toxandoria:20061014 175027j:image [参考情報]2006年、夏のフランドル(オラン・ベルギー)旅行の印象/オラン ダ・総集編2−1 2006.10.14 【画像の解説】 <注>お手数ですが、画像は下記URLでご覧ください。 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20061014 一枚前目は、EUの旗(European Flag)です。12個の金色の星の意味はEUに加 盟する国の数ではなく、「完璧・充実・調和・寛容」の価値観を象徴するとさ れています。二枚目は、ブラッセルのEU Dictrictにある欧州委員会ビルの風 景(2006年8月中旬、早朝、六時半頃)です。なお、欧州連合/欧州委員会・欧 州議会などの本部機能はベルギーのブラッセルに集中しますが、EUの出発点と なったマーストリヒト条約(Maastricht Treaty)は1992年にオランダのマースト リヒトで調印されています。 三枚目は、オランダ王国(Kingdom of the Netherlands/ナポレオン戦争後の18 15年にベルギーも含む形で成立した/オランダ総督ウイレム6世が国王ウイレム 1世と称したことに始まる立憲議会制王国)の国旗です。スペインから独立 (独立戦争=1568〜1609)するとき(1581年にオランダ独立宣言でネーデルラ ント連邦共和国を樹立したが、それが国際的承認を受けるのは1648年のウエス トファリア条約(三十年戦争の講和条約=近代国際会議の始まり)による)の 象徴として使われた三色旗の伝統を引き継いだ旗です。 四枚目は、「国際司法裁判所」(平和宮/この建物自体は1913年に完成)の遠景 です。よく知られているとおり、「国際司法裁判所」は平和と自由を愛し、そ の永久の継続のためにこそ「国際法」が必要であることを説いたため“国際法 の父”と呼ばれる、グロティウス(デルフトの有力市民の子であった)の理念 が結実(1899(明治32)年、グロティウス“没後約250年”に第1回ハーグ平和会 議で“国際紛争の処理に関する条約”成立したことに始まる)したものです。 最初にできたのが「常設仲裁裁判所」であり、これを引き継ぐ形で第一次世界 大戦後の1922(大正11)年に国際平和維持機構として常設の「国際司法裁判所」 が開設され、同時に「国際連盟」が創設されました。 五枚目は、「アムステルダム国立美術館」(Rijksmuseum Amsterdam)の遠景 です。今年は“レンブラント生誕400年”でオランダ国内では様々な記念行事が 行われていますが「アムステルダム国立美術館」はその中心機能を担ってお り、ここにはオランダの国宝とされるレンブラントの『夜警』、それにフェル メールの『手紙を読む女』などの傑作が所蔵されています。レンブラントもフ ェルメールも直接的には平和を語りませんでした。しかし、この二人は、平和 の理念につながる「美意識」はどのようなものであるかを、あるいは「平和で 美しい国」がどのようにあるべきかを私たちに無言で語りかけています。 六枚目は、ベルギー王国(Kingdom?of ?elgium/スペイン領、オーストリ ア領、革命フランス軍とナポレオンによる支配、そしてオランダ王国による支 配の時代を経て、ベルギー国民議会(革命派が中心の)は1830(天保1)年に民主 的・自由主義的な憲法を制定/その後、国民議会がザクセン・コーブルグ・ゴ ータ公レオポルトを国王レオポルト1世(中部ドイツの小領邦国家ザクセン・コ ーブルグ・ゴータ家出身のいわば“頼まれ国王”)として迎えKingdom ?f ? elgiumが成立)の国旗です。 ベルギー政府の説明では“ベルギーの国旗は昔の領邦国家ブラーバント公国 (現在のベルギーの凡そ中心に位置する)の紋章に由来しており、黄色の獅 子、黒の背景、獅子の爪と牙(赤)”ということになっています。しかし、ベ ルギー国旗の三色には諸説があるようです。いわく“黒はブラーバント地域で 通用した貨幣の色、黄色はフランドル地方で使われた武具の色調、赤はエノー 地方の領主の紋章”、いわく“フランス革命軍の三色旗を手本とした”、いわ く“ブラーバント公の紋章の色(黒地に赤い舌を出した黄色いライオン)を継 承した”等々です。いずれにせよ、ベルギー王国の複雑な「成立事情と民族・ 言語」を「寛容」の共通価値観で纏め上げたような国旗です。 七枚目はブラッセル(フランドル)の風景、八枚目はブルージュ(フランド ル)の風景です。既に見てきたとおり、オランダとベルギーはフランドルを中 心として歴史のプロセスの過半を共有 しています(狭義では凡そ16世紀末こ ろまで、広義ではベルギー王国が成立する19世紀始めころまで)が、近・現代に おける両国の重要な役割を一つ言えば、「法の支配の原則」による「人類文明 のコントロールの可能性」を先見的な国家統治の形として実現してみせたとい うことです。このことについては、現在の両国が文字通りの小国であるため (国土面積と人口規模が小さいという意味/両国の面積は、二つ合わせても日 本の“九州プラス四国”より少し広い程度/ただ、殆どが平地なので利用可能 な土地の面積は“九州プラス四国”より広い)見過ごされがちです。しかし、 この事実は、人類の歴史にとって、あるいはこれからも人類の未来を左右する 可能性があるという意味で特筆すべきほど重要(★)です。 <注>この意味(★)については、当稿の最後の章「世界におけるヨーロッパ 文化の優越を確立したオランダ・ベルギー思想」で詳述します しかし、今やアメリカ型のグローバリズム(経済原理主義に偏重したグローバ リズム)の時代に入り、この人類史上で最も先見的な「寛容の価値観」(“法の 支配の原則”の時代)の土台が揺るぎ始めています。つまり、ミシェル・フーコ ーによれば今や世界は“バイオポリティクス”(生政治)の時代に入ったようで す。そこでは、国家の統治力が法制度という外的な強制力に止まらず、恣意的 な政治権力が各個人の内奥にある倫理・宗教・美的感性、イデオロギー及び生 命観などを左右する無意識レベルまで浸透し、個々の市民・国民の内部の精神 環境へ作用するのです。 例えば、北部オランダ語圏(フランドル)の過激な政党VB(フラームス・ブラ ング/“フランドルの利益”を名乗る極右政党)などによる自治要求の強化を求 める声が大きくなりつつあり、新しい言語紛争の兆し(ブラッセル近郊の町メ ルヒテムにおけるフランス語禁止の公立学校の出現)すら見られます。しかし ながら、中長期的に見れば、ベルギーでは「正しい歴史観」と「寛容の精神」 に裏付けられた新たな解決への道が必ず模索されることになると思います。 このような観点からすると、EU統合の中心地であるブラッセルと「第2期フラ ンデレン運動」(1840年代〜1900年代のフランデレン語(オランダ語)とフラ ンス語の言語平等化運動)のリーダーであったヒド・ヘゼレ(Guido Gezelle /参照、当シリーズ「ブルージュ編3」http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20 060911)の足跡(ヒド・ヘゼレ博物館)が残る美しい古都ブルージュの象徴的 な役割が重要になると思われます。従って、ベルギーにおける、これら二つの 歴史的な都市の役割は、単に観光地的なスーベニールに止まるものではないの です。 ・・・・・・・・・・・・・・・ [現代民主主義社会を形成するための中核となったオランダ・ベルギー思想] (オランダ・ベルギー思想の特徴) スペイン帝国に対する「オランダ独立戦争」(1568〜1609)を主導し、大航海時 代に植民地を獲得したカルヴァン主義者たちの姿があまりにも大きく見えるた め、一般にはオランダ精神の特徴はカルヴァン主義的なもの(=アメリカ合衆 国・建国の精神的な支柱ともなったカルヴィニズム・プロテスタントの精神)だ と見なされる傾向が強いようです。しかし、ごく大雑把に言うと、オランダ独 立戦争時代までのベルギー・オランダ両国の思想は殆ど同じ都市市民的な基盤 を共有していたのですが、16世紀末にフェリペ2世の娘イサベラがベルギー (ネーデルラント南部)を与えられ、ベルギー総督として、その夫アルブレヒ トと共同統治を始めたころからベルギーはオランダから離れてカトリック圏に 入ったという現実があります。しかしながら、それにもかかわらず12世紀頃か ら16世紀末までの間にオランダ・ベルギー地方の都市市民たちが共有していた 価値観の大きさも見過ごすことはできないのです。 <注>カルヴァン主義(カルヴィニズム)については下記URLを参照。 http://epedia.blog360.jp/%A5%B8%A5%E3%A5%F3%A1%A6%A5%AB%A5%EB%A5%F4%A5% A1%A5%F3 ベルギー王国成立後(1830年〜)のベルギーの思想状況を概観すると、南部フラ ンス語圏(ワロニー地方)では19世紀において自由主義思想が浸透し、20世紀 においては社会主義思想の浸透が目立ちます。一方、フランドル(フランデレ ン)地方は保守的なカトリック主義とフランデレン(オランダ文化)的な民族 主義が優勢であったと考えられます。しかしながら、上で見たとおりオラン ダ・ベルギー両国の思想の基盤には、中世以来の伝統を引き継ぐ、殆ど同じ都 市市民的な価値観を共有してきたという歴史があります。そして、この共有基 盤の根底には、オランダ精神の祖と見なされるべき、17世紀の思想家エラスム スの思想が深くしっかりと根を降ろしています。 このため、エラスムスとその影響を受けた近世のオランダ・ベルギーにおけ る、世界中の思想に大きな影響を及ぼしたと見なされる偉大な思想家・哲学 者・歴史家の一部を概観しておきます。なお、オランダ・ベルギー思想の伝統 を支えてきた基盤として見逃せないのが、現在もベルギーとオランダに存在す る「高度な出版文化の伝統」です。その金字塔はルネッサンスおよびバロック 時代まで遡るアントワープの「プランタン・モレトウス印刷博物館」(Plantin- Moretus Museum)で、これこそがベルギー・オランダ両国にとっての共通の偉 大な文化遺産です(この詳細については下記記事を参照)。 『toxandoriaの日記、2006年、夏のフランドル(オラン・ベルギー)旅行の印 象/アントワープ編』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060902 ■エラスムス(Desiderius Erasmus/ca1466〜1536) ロッテルダムの市民家庭に生まれたエラスムスは、18歳で入った修道院の生活 を経てソルボンヌ大学(パリ)に入り、そこで北イタリア・ルーツの人文主義 (ルネサンス)思想に触れ、その後、イギリスを訪ねてトマス・モア(Thomas More/1478〜1525/著書『ユートピア』で名高い思想家で、カトリックの立場 からヘンリー8世の離婚に反対し投獄・処刑された)などと交友を持ちます。 一時期イギリスを離れ、ヨーロッパ中(ルーヴェン・パリ・ヴェネツィア・ロ ーマ)を遍歴したエラスムスは、1509年にイギリスに戻り、モア宅に滞在しな がら名著『愚神礼賛』を著し、この著書でエラスムスは宗教改革が起こる直前 の深刻な社会的矛盾を優れた風刺的手法で抉り出します。この時、エラスムス は“穏健な手段”によってカソリックの内部から教会を改革する意図(=中庸 の感覚による社会改革の意図)を持っていたのです。このため、ドイツの宗教 改革者マルチン・ルター(Martin Luther/1483〜1546)が書簡で、過激な改 革への支持を求めたとき、エラスムスはこれを拒絶しています。 ところで、エラスムスが思想家として先見的であったのは、その頃に発明され たばかりのグーテンベルグの印刷術(=出版物)を率先して活用したことで す。このため、彼の著作はヨーロッパ中の知識人たちへ計り知れぬほど大きな 影響を及ぼすことになり、その光は混迷を深めるばかりの現代世界の頭上でも 燦然と輝いています。このような意味で、エラスムスは人知の頂点に到達した ともいえる“中庸の感覚”(=人類へ平和をもたらす唯一の手段としての“寛 容”の精神)の偉大な発見者です。別に言えば、“寛容”が人類の未来へどれほ ど大きな影響を及ぼすことになるかということの発見者であったのです。 つまり、エラスムスは、人類史上で初めて、戦争・迫害・差別・虐待などの原 因となる「不寛容の愚かしさ」を様々な角度から抉り出してみせた上で、ヨー ロッパ中の知識人たちに対し、「宗教・党派・民族・イデオロギーなどの枠を 超えて寛容と平和を愛することの意義」(=人間性の善き部分、つまり優し さ、親切心、潔癖を好む傾向、ホスピタリティなどの部分を直視し、積極的に 評価し活用すること)について積極的に自覚を促したと言う意味で、きわめて 独創的かつ行動的な思想家であったのです。 そして、驚くべきことは、このようなエラスムスの高度な感覚・精神・思想が 今もオランダ人とベルギー人の社会の中で息づいているという現実があること です。このため、近年の北部オランダ語圏(フランドル)における過激な右派 政党VB(Vlaams Belang/フラームス・ブラング)の台頭(過激なフランデレン 民族主義の台頭)、あるいは深刻な「移民問題」などグローバリズム時代の不 安と混迷の到来が予見されるにもかかわらず、欧州連合(EU)の中心地として のネーデルラントは、今や再び「人類の未来のための新たな知の発見と実践」 が期待される場所として注目すべき所なのです。 ■グロティウス(Hugo Grotius/1583〜1645) デルフトの有力市民(市長や参事会員を輩出した家系)の子として生を受けた グロティウスは、14歳でライデン大学を卒業し、15歳でオランダ連邦共和国の 使節団の一人としてフランス国王アンリ4世(1553〜1610/ブルボン王朝フラン スの始祖/新教徒(ユグノー)と和解するため1598年の“ナントの勅令”で一部の 信仰の自由を認め、フランスの宗教戦争を終らせた)に謁見する機会を与えられ たという天才です。やがてグロティウスは弁護士となりますが、法律実務より も文芸・文学に興味が引かれ、悲劇『アダムの追放』(1601)を書いています。 21歳のグロティウスは、マラッカ海峡におけるポルトガル船拿捕の事件に際 し、オランダ東インド会社から委嘱を受けて『捕獲論』を書き、東インド会社 の立場を擁護します。更に、グロティウスはその一部を『海洋自由論』として 出版(1609)し、いかなる国の国民でも「自然法」の原則によって海洋を自由 に航行して他国民と自由に交易をする権利があることを説きました。18世紀に 入ってから、この海洋自由論は広く世界的に承認されるようになり、現在の 「公海」と「領海」の概念が成立したのです。 グロティウスは議会派の偉大な指導者(政治家)ヨハン・ファン・オルデンバル ネフェルト(Johan van Oldenbarnevelt/1547〜1619)との交流が災いし、総 督派によって逮捕・幽閉されてしまいます。しかし、夫人の機転による奇跡的 な脱獄に成功したグロティウスはパリに逃れますが、やがて彼は、その亡命生 活中の1625年に代表的著書『戦争と平和の法』を出版します。この本は、「近 代自然法」と「国際法の基礎」を確立したという意味で極めて重要な著作で す。 グロティウスが生きた時代は、まさに17世紀オランダの黄金時代です。しか し、一方でこの時代は延べ80年間にも及ぶ長い過酷な戦乱(オランダ独立戦争 (1568〜1609)、三十年戦争(1618〜1648/ドイツを主戦場とした宗教戦争))に よってヨーロッパ中の人々が塗炭の苦しみを味わった時代でもありました。こ のような激しい戦乱の時代(精神史・美術文化史的に見ればバロックの時代) であったからこそ、人類に与えられた永遠の課題ともいえる「戦争と平和」の 問題に関し、天才グロティウスは、人知を尽くす限りの激しい闘いを自らに課 し、それに命がけで挑むことができたのです。 グロティウスは原理主義的に正統であること主張する立場(独善的な正統主 義)を批判する一方で、広汎で豊かな歴史観と論理的な証明によって「自由・ 平和・寛容・融和・調和」の価値観が人類の未来にとって絶対的に必要なもの であることを論証しました。このような、グロティウスの「人間の理性に対す る無限の信頼」の基層にエラスムスの“中庸の感覚”が根付いていることは明 らかです。そして、このグロティウスの理念は、国際平和維持機構としての 「常設・国際司法裁判所」の開設と「国際連盟」(→現代の国際連合へ継承)の 創設(1922)として結実します。 ■スピノザ(Baruch de Sponoza/1632〜1677) 迫害を逃れるためポルトガルからオランダのアムステルダム(当時のアムステ ルダムはヨーロッパで有数の国際商業貿易港で、自由と寛容の空気が流れてい た)へ亡命した裕福なユダヤ商人の家に生まれたスピノザは、自由思想を信奉 したという廉でユダヤ教団から破門(24歳のとき)されます。このため、スピノ ザはユダヤ的で温厚な神秘主義の精神とルネサンス以降の合理精神(スコラ哲 学的論理学、デカルト哲学、数学、自然科学など)を統一して、独創的な哲学 体系(寛容の哲学体系)を築くことになります。そして、スピノザはプロテス タントの中のアルミニウス派に共鳴していました。 その頃のオランダでは、「厳格な聖書主義と予定説」を説く聖書原理主義的な カルヴァン派のキリスト教徒と、「寛容と中庸の感覚」の重要性を説くアルミ ニウス派(カルヴァンが説く予定説に疑念を持つ立場)が対立していました。 カルヴァンの予定説によれば、人間の未来は全てを見とおしている神の意志ど おりとなり(神の予定したとおりとなるので)、このような神を信じない一般 の人間には自由が一切ないことになります。しかし、一方で神を聖書原理主義 的(聖書に書いてあることを文字どおり)に信じさえすれば、そのような意味 で神を信ずる人間は神から一切の自由が与えられることになります。この考え 方は見方によってかなり利己的で危険なもの(=これが神権的な性格の国家の 場合には一国主義(ユニラテラリズム)になる/現在のブッシュ政権のアメリカが その典型)であり、敬虔で穏やかなキリスト教的愛とエラスムス的な寛容に共 鳴していたスピノザには馴染めないものでした。 また、スピノザは、当時の議会派の実権を握りながら「二度にわたる対英戦 争」(英蘭戦争/1652〜1654、1665〜1667/植民地支配を巡り制海権を争った戦 争)を指揮してオランダ連邦共和国に黄金時代の最盛期をもたらした政治家ヨ ハン・デ・ウイット(Johan de Witt/1625〜1672/法学・哲学・数学・文学 に通暁したルネッサンス的な万能の巨人で、寛容なアルミニウス派を信奉)に 共鳴していました。ともかくも、このような時代の空気の中で、スピノザの哲 学的な思索は深められて行ったのです。 1663年、スピノザは生前に出した唯一の著作『デカルトの哲学原理』を発表し ます。いわゆる「スピノザの汎神論的一元論」のデヴューです。スピノザは、 この著書でデカルト(Rene Descartes/1596〜1650/物心二元論を展開し近世 哲学の父とされるフランスの哲学者)解決できなかった二元論を止揚し、デカ ルトがそれぞれ独立していると見なした精神と物質という二つの実態が実は一 つであり、それこそが「あらゆる属性を含む唯一の神と呼ばれるものの実体」 であると論証したのです。 スピノザは、カルヴァン派の人々から無神論者と疑われ、あるいは危険思想の 持ち主と見なされ(誤解され)ました。このため主著『エチカ』(1675年ころ完 成)の出版は断念され、それはスピノザの死後になってから、彼の友人たちの手 により『遺稿』として出版されます。また、スピノザは匿名で出版した『神学 政治論』で聖書の歴史批判的な解釈を行い、死後に出版された『国家論』では カルヴィニズムによる神権政治の危険性を批判しました。このデカルトの慧眼 は、現代におけるアメリカ型のキリスト教原理主義と市場原理主義の弊害(過 剰にマネタリズムへ傾斜した現代資本主義の負の部分)を予見していたと見な すこともできます。 このようなスピノザは、カルヴィニストから無神論者と疑われただけでなくロ ーマ・カソリック教会側からも危険思想と見なされ、その著作はヴァチカンの 禁書目録に記載され、長い間にわたり「非難と無視の罰」を受けることになり ます。が、やがて19世紀のドイツ観念論哲学(カント、フィヒテ、シェリン グ、ヘーゲルらの)によって再評価が与えられます。そして、21世紀に入りミ シェル・フーコーが予見した通り、再び「追憶のカルト」(主に世襲の寄生権 力者らの精神の奥深くに巣食う、父権的支配意志に関する一種のトラウマ)が 幅を利かせ(暴走す)る「生政治」(バイオポリテクス)の時代に入り、人類 世界は向かうべき方向性を見失いつつあります。このような混迷の時代にこ そ、スピノザの哲学は重要な意味を帯びてくるのです。 <注>「追憶のカルト」については後(オランダ総集編4)で詳述します。 ■ホイジンガ(Johan Huizinga/1873〜1945) 20世紀前半に精神史・文化史の新しい視点を提唱した歴史家として名高いヨハ ン・ホイジンガは、1872年にオランダ東北部の都市フローニンゲンで、大学教 授の子として生まれました。フローニンゲン大学で比較言語学を学んだホイジ ンガは、古代インド学の学位(比較言語学)を得たあとで生涯の研究テーマを 「西欧中世文化」に定めます。 1905年にフローニンゲン大学の教授となったホイジンガは、歴史的思考におけ る美的直感の重要性を説いて、文化史家としての立場を宣言します。ただ、 “ホイジンガが言う美的直感”は「追憶のカルト」のような世襲的・家産的・ 個人的な権力維持の妄想に囚われることとは無縁だということを忘れるべきで ありません。無論のことながら、歴史にかこつけて何を語り何を主張しようが 個人の自由だなどということも彼は言ってはおりません。ホイジンガが主張し たのは、特に文化史に取り組む歴史家は“美的感性と論理を冴えわたらせなが ら、歴史を繰り返し検証する往還の精神のプロセスから人類の未来のための新 たな知恵を発見し、絶えず謙虚な態度でそれに学ぶべきだ”ということです。 ともかくも、ホイジンガは10数年に及ぶ研究期間を費やした上で、1919年に名 著『中世の秋』を著します。この著書は14〜15世紀のブルゴーニュ公国の歴史 を美しく表情豊かな味わい深い文章で記述したものです。それは、かつてバー ゼル大学のブルクハルト(Jakob Burckhardt/1818〜1897/スイスの歴史家・ 文化史家/ルネサンス文化の研究で近代美術史学の基礎を創った)が、イタリ ア・ルネサンスにおける写実主義や自然主義の萌芽は中世キリスト教精神を否 定した近代的自我の萌芽の兆しであると説いたことに対するアンチテーゼでし た。 ブルクハルトは、例えばファン・アイクの絵画『神秘の子羊』に見られるよう な過剰なほどに詳細極まりない写実主義(参照、『toxandoriaの日記、2006 年、夏のフランドル(オラン・ベルギー)旅行の印象/ゲント編』、http://d. hatena.ne.jp/toxandoria/20060829)は北方ルネサンス精神の合理的精神の先 駆けだと認識しますが、ホイジンガは、このようなブルゴーニュ美術の手法 は、むしろ歴史の流れの中で過ぎ去ろうとする“中世文化の秋の実り”だと捉 えたのです。つまり、このホイジンガの名著は、中世末期〜ルネサンス期の文 化に関する、当時のアカデミズムが支配していたパラダイムを大きく転換させ ることになったのです。 もう一つの名著『ホモ・ルーデンス』(1938)を完成させ、ライデン大学学長と 王立科学アカデミー会長に推されたホイジンガの名声は、オランダを超えた 「ヨーロッパの知性」として不動のものとなります。しかし、この時代のヨー ロッパにはナチス・ドイツ(ヒトラーのファシズム政権)が影を落とし始めて いました。この頃、既にホイジンガは、ファシズムを生んだ(ファシズムに熱 烈な支持を与えた)大衆社会の歪んだ(ネジレた)精神環境の病理を抉った名 著『明日の影の中で』(1935)を出版していたため、ナチス・ドイツは対独強力 を拒んだことを口実にホイジンガを強制収容所へ送り込みます。やがて、ホイ ジンガは数ヶ月後に軟禁状態へ移されますが、それにもめげず著書『汚された 世界』(1945)を著し、人類文化の未来を驚異的な意志力で探る、殆ど絶望的で 孤独な闘いを続けますが、遂に力が尽きる形で1945年2月に永眠しています。 ■ピレンヌ(Henri Pirenne/1862〜1935) まさに“21世紀の現代にこそ相応しいと思われる歴史の再評価に取り組ん だ”のがベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌです。ピレンヌは、民族の大移動 が古代と中世を分けたとする伝統的な歴史観に対して、イスラムが地中海の制 海権を押さえた8世紀半ば以降にヨーロッパの中世が始まったとする、いわゆ るヨーロッパ中・近世史に関する「ピレンヌ・テーゼ」を提起しました。 ピレンヌは1862年にマース川沿いにある都市ヴェルヴィエのブルジョアの家 (織物工場を経営)に生まれ、リエージュ大学で歴史学を学びます。その後は パリ、ライプツィヒ、ベルリンなどを遊学し、リエージュ大学での教職を経 て、最終的にはゲント大学(中世史担当)の教壇に立ちます。そして、ピレン ヌが畢生の大著『ベルギー史』に着手した頃のベルギー王国は、その誕生(183 0)から未だ1世紀足らずを経たばかりでした。 この仕事に取りかかったピレンヌの目的は、ローマ帝国、ブルゴーニュ公国、 ハプスブルグ神聖ローマ帝国(オーストリア、スペイン)、フランス、オランダ など様々な国の支配下にあったベルギーが、如何にして必然的に一つの国民国 家へ纏まってきたかを明らかにすることでした。しかし、皮肉にもピレンヌが 生きた時代はフランデレンとワロニーの対立(第2・第3期言語紛争の時代) が激化する時でした。漸く、第二次世界大戦後になって“連邦化”の王国とな るベルギーはピレンヌの意図とは裏腹にきわめて人工的に構築された国家であ ったのです。しかしながら、多様で異質な民族と言語を結びつけたものがフラ ンドルに根付く「寛容の価値観」であったことも現実です。そして、それは今 まさに進捗しつつあるEU(欧州連合)統合のための強力な求心力でもあるので す。 また、ピレンヌは、フランデレンにおいて毛織物工業が都市へ集中した意義を 論ずるため“商人定住説”を前提とする「中世都市起源論」を提唱し、フラン デレン地方と北イタリアをヨーロッパにおける“(ローマ時代の)商業復活の 二大基地”とみなすとともに、近代資本主義の萌芽(資本家の勃興)がベルギ ー地方の中世経済の発展史の中にあることを明らかにしました。 第一次世界大戦中にプロイセン・ドイツ帝国軍はベルギーを占領します。この 時、ピレンヌは強硬にドイツ軍へ反抗したゲント大学への見せしめのため逮捕 され、各地の収容所を転々とする生活を3年間も強制されることになります。 しかし、ピレンヌは、この悲惨な体験の中で自らの省察を更に深め新しい歴史 観を展開し、そこから冒頭で述べた「ピレンヌ・テーゼ」を着想したのです。 しかし、ピレンヌは名著『マホメットとシャルルマーニュ』の原稿を残して193 5年に没します。 この名著『マホメットとシャルルマーニュ』でピレンヌが明らかにしたのは、 各国の国民史の枠を越えた“一定の価値観を共有するヨーロッパ社会”が如何 に成立し得たのかという問題です。今でこそ周知とされていますが、従来の歴 史観が全く気付いていない視点でした。つまり、それは、イスラムの地中海進 出こそが中世の「一定の価値観を共有するヨーロッパ社会」を形成する誘引で あったということです。ここには、「グローバリズムと個性的な地域文化の交 流のあり方」、「戦争や紛争を乗り越える寛容の意義」などについてのピレン ヌの豊かな知見が垣間見えます。そして、ピレンヌが明らかにした、このよう な“中世ヨーロッパ社会の古層”こそが現代ヨーロッパにおける「EU統合の鋳 型」となったのです。ここから言えるのは、やはりピレンヌも「エラスムスの 寛容の光」を継受していたということです。 |