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▲▽誠▽▲▽誠▽▲▽誠▽▲▽誠▽▲▽誠▽▲▽誠▽▲ ==幕末・維新がわかるメルマガNo.1== 第3号 【新選組】京洛を震撼させた【暗殺集団】の虚実 ▲▽誠▽▲▽誠▽▲▽誠▽▲▽誠▽▲▽誠▽▲▽誠▽▲ 〜〜第3章〜〜 新選組の活躍 参予会議の崩壊後、京の治安維持に当たったのは 松平容保の配下になっていた新選組だった。 「池田屋事件」で尊攘派に壊滅的な打撃を与えた。 ----------------------------------- 中央政界を支配した 「一会桑政権」とは? ----------------------------------- 元治元年(1864)に参予会議が崩壊した後、京都の政治と軍事は、 一橋慶喜、京都守護職の松平容保(会津藩主)、 京都所司代の松平定敬(桑名藩主)によって握られます。 この政権は「一会桑(いっかいそう)政権」と呼ばれ、幕府の意思を 代表する勢力として、中央政界の主導権を担うようになりました。 朝廷はこの一会桑政権に対し、三条実美らをかくまう長州藩の処分や、 懸案の横浜鎖港問題などの対処を全面的に委任し、 幕府にすりよる態度を見せます。 このような状況下、京の治安維持に当たったのが、 京都守護職・松平容保の配下となっていた新選組でした。 新選組はこの前年の文久8年(1863)に結成されています。 当初は芹沢鴨、新見錦、近藤勇の3人が局長を務めていましたが、 芹沢の素行の悪さなどが原因となって内紛が起こり、 結局、この年の9月に芹沢は近藤によって暗殺されてしまいます。 その後、局長・近藤勇を中心に、総長に山南敬助、 副長に土万歳三という体制で再スタートした新選組の名を 一躍高めたのが、元治元年に起こった池田屋事件でした。 --------------------------------- 新選組を一躍有名にした「池田屋事件」 --------------------------------- 元治元年に入ると、前年に京を追われた長州藩は巻き返しを図り、 京への出兵を画策します。 この動きに呼応して京に潜伏していた尊攘派の志士たちは、 6月半ばの風の強い日を選んで御所を始め京都市中に放火し、 天皇を奪って長州藩へ連れ去るという陰謀を計画します。 6月5日、この計画の打合せのため京に潜伏する長州藩の面々が集まる、 という情報を得た新選組はさっそく出動。 しかしこの時点では、会合場所がどこなのかわかっておらず、 近藤勇が5人、土方歳三が23人の隊士を率いて二手に分かれて 宿屋や料理屋を片っ端から探索して回りました。 近藤らが三条河原町の旅館・池田屋に到着したのは、 午後10時頃だったようです。 この時池田屋に集まっていたのは、肥後の宮部鼎蔵、松田重助、 長州出身で吉田松陰門下の吉田稔麿、 土佐の望月亀弥太、北添佶麿といった、大物志士約30名。 近藤は別行動を取っていた土方や京都守護職の会津兵や 所司代からの藩兵らが応援に到着するのを待たずに、 沖田総司、永倉新ハ、藤堂平助、谷三十郎、近藤周平、 原田左之助のたった7人で池田屋に斬り込んだのです。 ふいをつかれた志士たちも果敢に応戦しますが、 やがて土方の隊も到着して戦闘に加わり、 遅ればせながら会津兵も池田屋を取り囲みました。 激しい戦闘は2時間にもおよび、志士側は宮部、吉田ら 9名が死亡、20数名が捕縛されました。 尊攘派は潰滅的な打撃を受け、この事件によって 「維新が一年遅れた」とまで言われています。 一方の新選組には、京都守護職・松平容保や朝廷から 褒賞金が下され、一躍世間にその名を知られるようになります。 同時に尊攘派の志士たちからは、 は天敵のように恐れられる存在となったのです。 〜〜〜〜〜〜 裏 話 ==池田屋事件の内幕== 〜〜〜〜〜〜 池田屋に斬り込んだ人数については、6人だったという説もある。 この「池田屋事件」で、維新が3年遅れたとも言われている。 ▲▽▲▽==幕末・維新がわかるメルマガNo.1==▽▲▽▲ 【新選組】京洛を震撼させた【暗殺集団】の虚実 佐竹 hijikatasinsen@yahoo.co.jp |