メルマガ:【新選組】京洛を震撼させた【暗殺集団】の虚実
タイトル:【新選組】京洛を震撼させた【暗殺集団】の虚実  第3号  2006/09/30


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==幕末・維新がわかるメルマガNo.1==  第3号

  【新選組】京洛を震撼させた【暗殺集団】の虚実


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〜〜第3章〜〜 新選組の活躍

  参予会議の崩壊後、京の治安維持に当たったのは
  松平容保の配下になっていた新選組だった。

  「池田屋事件」で尊攘派に壊滅的な打撃を与えた。


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中央政界を支配した 「一会桑政権」とは?
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元治元年(1864)に参予会議が崩壊した後、京都の政治と軍事は、
一橋慶喜、京都守護職の松平容保(会津藩主)、
京都所司代の松平定敬(桑名藩主)によって握られます。

この政権は「一会桑(いっかいそう)政権」と呼ばれ、幕府の意思を
代表する勢力として、中央政界の主導権を担うようになりました。

朝廷はこの一会桑政権に対し、三条実美らをかくまう長州藩の処分や、
懸案の横浜鎖港問題などの対処を全面的に委任し、
幕府にすりよる態度を見せます。

このような状況下、京の治安維持に当たったのが、
京都守護職・松平容保の配下となっていた新選組でした。

新選組はこの前年の文久8年(1863)に結成されています。
当初は芹沢鴨、新見錦、近藤勇の3人が局長を務めていましたが、
芹沢の素行の悪さなどが原因となって内紛が起こり、
結局、この年の9月に芹沢は近藤によって暗殺されてしまいます。
その後、局長・近藤勇を中心に、総長に山南敬助、
副長に土万歳三という体制で再スタートした新選組の名を
一躍高めたのが、元治元年に起こった池田屋事件でした。

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新選組を一躍有名にした「池田屋事件」
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元治元年に入ると、前年に京を追われた長州藩は巻き返しを図り、
京への出兵を画策します。

この動きに呼応して京に潜伏していた尊攘派の志士たちは、
6月半ばの風の強い日を選んで御所を始め京都市中に放火し、
天皇を奪って長州藩へ連れ去るという陰謀を計画します。

6月5日、この計画の打合せのため京に潜伏する長州藩の面々が集まる、
という情報を得た新選組はさっそく出動。
しかしこの時点では、会合場所がどこなのかわかっておらず、 
近藤勇が5人、土方歳三が23人の隊士を率いて二手に分かれて
宿屋や料理屋を片っ端から探索して回りました。

近藤らが三条河原町の旅館・池田屋に到着したのは、
午後10時頃だったようです。

この時池田屋に集まっていたのは、肥後の宮部鼎蔵、松田重助、
長州出身で吉田松陰門下の吉田稔麿、
土佐の望月亀弥太、北添佶麿といった、大物志士約30名。

近藤は別行動を取っていた土方や京都守護職の会津兵や
所司代からの藩兵らが応援に到着するのを待たずに、
沖田総司、永倉新ハ、藤堂平助、谷三十郎、近藤周平、
原田左之助のたった7人で池田屋に斬り込んだのです。

ふいをつかれた志士たちも果敢に応戦しますが、
やがて土方の隊も到着して戦闘に加わり、
遅ればせながら会津兵も池田屋を取り囲みました。
激しい戦闘は2時間にもおよび、志士側は宮部、吉田ら
9名が死亡、20数名が捕縛されました。

尊攘派は潰滅的な打撃を受け、この事件によって
「維新が一年遅れた」とまで言われています。

一方の新選組には、京都守護職・松平容保や朝廷から
褒賞金が下され、一躍世間にその名を知られるようになります。
同時に尊攘派の志士たちからは、
は天敵のように恐れられる存在となったのです。


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  裏  話  ==池田屋事件の内幕==
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池田屋に斬り込んだ人数については、6人だったという説もある。
この「池田屋事件」で、維新が3年遅れたとも言われている。


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【新選組】京洛を震撼させた【暗殺集団】の虚実
佐竹 hijikatasinsen@yahoo.co.jp

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