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[参考情報]2006年、夏のフランドル(オランダ・ベルギー)旅行の印象/オラ ンダ・総集編1 2006.9.28 <注>お手数ですが、画像は下記URLでご覧ください。 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060928 f:id:toxandoria:20060928184357j:imagef:id:toxandoria:20060928184502j:im agef:id:toxandoria:20060928184630j:imagef:id:toxandoria:20060928184729 j:imagef:id:toxandoria:20060928184812j:imagef:id:toxandoria:20060928184 856j:imagef:id:toxandoria:20060928184934j:imagef:id:toxandoria:20060928 185015j:imagef:id:toxandoria:20060928185049j:image 【画像の解説】 一枚目は、デン・ハーグにある「マウリッツハイス王立美術館」(Mauritshui s、http://www.mauritshuis.nl/)にある『デルフトの風景』(View of Delf i. c.1660-1661. Oil on canvas 94.5×115.7cm)の展示風景です。言うまで もなく、この絵はフェルメールが残した、わずか二枚の風景画のうちの一枚で すが、この絵の中央部分に描いてあるスヒーダム門の時計が指す時刻から、こ の「風景の光」は朝7時過ぎころのものだとされています。 二枚目は、変化が激しいオランダ(デン・ハーグ)の昼前後の「光、空、雲」 のスナップです。雨模様の空が急に明るくなり、急に雲が湧き立ってきたよう な印象を受けました。三枚目は、17世紀オランダの最大の風景画家とされるヤ コブ・ロイスダール(Jacob van Ruisdael/ca1628-1682)の『小麦畑』(Whe at Fields 1670s Oil on canvas, 100 x 130,2 cm Metropolitan Museum o f Art, New York)で、四枚目は同じくヤコブ・ロイスダールの『風景、降り注 ぐ陽の光』(The Ray of Sunlight ?(year) Oil on canvas 83ラ99cm Rouv re 、Paris)です。 これらの絵とオランダの空を眺めていると、たしかに、ここには独特の「オラ ンダの光」があるように思われます。この「オランダの光」を探求したドキュ メンタリーが、制作・監督:ピーター-リム・デ・クローンの映画『オランダの 光』(参照、http://www.icnet.ne.jp/~take/vermeerhollandslight.html、DVD で入手可能)です。なお、見事な「オランダの光」のスチール写真が壁紙用に 公開されていますので、下のURL★でご覧ください。 ★http://www.hollandslicht.nl/www/html/eng/multimed/desktops.htm 五枚目〜九枚目はアムステルダム「スキポール空港」の風景で、八枚目と九枚 目は、帰路に乗ったJALのジャンボジェットです。七枚目の「SUSHI BAR」で は、久しぶりの“日本食”に舌鼓を打ちました。 スキポール空港(Luchthaven Schiphol、http://www.schiphol.nl/)はオラン ダ最大の空港で、アムステルダム南西、約15kmに位置する北ホラント州のハオ レマーメアにあり、KLMオランダ航空などオランダの航空会社、及びKLMと提携 するノースウエスト航空などのハブ空港です。というよりも世界中のトラベラ ーから高く評価されるスキポール空港は、事実上、そのロケーションからEUの ハブ空港の位置づけとなりつつあります。このスキポール空港はスキポールグ ループ(Schiphol Group)の資産で、株主は国・アムステルダム市・ロッテル ダム市などです。 世界中のトラベラーがこの空港を高く評価する理由の一つは、「ワン・ターミ ナル・コンセプト」と呼ばれるわかりやすい案内板と動きやすいターミナルの 造り、さらに乗り継ぎ時間を飽きることなく過ごすことができる空港施設が充 実していることです。例えば、ここには広大な広さのショッピングセンターで ある「スキポールプラザ」や「国立アムステルダム美術館」(Rijksmuseum、Am sterdam)の別館、http://www.abcgallery.com/R/rembrandt/rembrandt27.htm l)があります。無論、空港内部に美術館を作るのは世界でも初めてのことで す。 今、この「国立アムステルダム美術館・スキポール別館」では、オランダの風 車をテーマにした特別展が開催中であり、ヨンキント(J.B. Jongkind/1819-18 91)などハーグ派の画家たちが描いた風車の絵画などが展示されています(200 5年8月16日〜12月13日)。これらの絵画とともに18世紀の干拓用風車の模型、1 7世紀のオランダ地図、17世紀の風車の銀製の羽根、ハーレマーメア湖の干拓設 計図なども公開されています。また、航空会社のアライアンス(提携関係)に配 慮したターミナル配置となっていることも、スキポール空港が優れていると評 価されるポイントです。滑走路は約3.5kmが5本、約2kmが1本となっていま す。なお、下記のURL◆でスキポール空港の航空写真を見ることができます。 ◆http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Schiphol.jpg ・・・・・・・・・・ 「オランダの光」が独特の輝きを見せてくれる理由の一つは、やはりネーデル ラントの個性的な自然風土にあるようです。更に、そこにはネーデルラントの 重層的な異文化との交流の歴史が彩りを添えています。(以下の記述は、200 5.7.11付・toxandoriaの日記「オランダの光」の伝説(2/6)」(http://d.hat ena.ne.jp/toxandoria/20050711)の内容を、少しだけ再編集して転載したもの です) ・・・・・ 14世紀初め頃のヨーロッパは急激な低温化と多雨によって「大飢饉」(1315-13 22)に見舞われています。丁度、この頃は地球気候の歴史の上では「中世温暖 期」(下記・注、参照)と呼ばれる時代が終ったところで、この後の時代は、 低温と多雨が長く続くようになり、予測ができないほど不安定な「気候の大変 動期」に入りました。これは気候学上は「小氷河期」と呼ばれる時代であり、 このような時期は19世紀半ば頃まで続きました。この「小氷河期」に入ったこ ろのヨーロッパでは、百年戦争(1339-1453)、ペスト大流行(1346−1351頃)、 ローマ教皇権の衰退と教会大分裂(シスマ/Schisma/1378−1417)などの歴史的 大事件が連続して起こり、同時にヨーロッパ中の農民や自治都市の反乱と戦争 が続発します。つまり、この14〜15世紀の時代は、いわゆる暗黒のヨーロ ッパ中世で最も陰鬱な闇の時代でした。これよりやや後の時代になりますが、 このような激しく厳しい自然環境下の「凍てつく冬の風景」を描いた絵がネー デルラントの画家ピーテル・ブリューゲル(父、Brueghel/ca1528-1569)の 『雪中の狩人』(1565、冬)です。ただ、ここで特に留意しなければならないこ とがあります。それは、「小氷河期」であっても「16世紀半ば〜17世紀後半」 の頃、つまり、ほぼ「オランダの黄金時代」に重なる時期は、その前後の時期 と比べて比較的温暖な気候であったと考えられることです。 (注)中世温暖期(Middle Ages Warm−Epoch/800〜1300年頃)と超長期的な地 球気候の傾向・・・下記資料(▲)によると、800〜1300年頃のヨーロッパの気温 は現代並みか、ややそれを上回る程度に温かく、これを「中世温暖期」と呼 ぶ。その原因については、活発な太陽活動が考えられているが未解明な部分が 多く、更なる検証(実証的研究)が必要である。また、この一時期の温暖傾向 は全地球的なものであったことも分かりつつある。この時期の太平洋には流氷 がほとんど見られず、アイスランドでは燕麦など麦類の栽培が可能であった。 このような時期に、北ヨーロッパではノルマン人が大西洋を渡りグリーンラン ドへ入植した。その先駆けとなったのが赤毛のエイリーク(Erik the Red/950- 1003)で、更にエイリークの子と義弟が1000年頃に北米大陸を発見したとされ る。なお、18世紀初頭〜19世紀初頭にかけての「小氷河期」が過ぎると、やが て19世紀半ば以降は再び温暖な時期に入った。そして、特に1970年代以降は地 球温暖化傾向が著しくなっている。 ▲ブライアン・フェイガン著:気候大変動[河出書房新社] ▲エマニュエル・ ル=ロワ=ラデュリ:気候の歴史[藤原書店] 元々、北部ネーデルラント(オランダ地方)は、その低地地帯という地質上の 環境条件から常に高波や洪水の危険にさらされていた地域で、11世紀頃の北部 ネーデルラントの居住可能な陸地は現在の半分程度しかなかったとされていま す。特に、「小氷河期」が始まりかけた14世紀の初め頃から15世紀までの間は 気象が不安定で、予測し難い悪天候が度々この地方を襲ったという記録が残さ れています。このため、13〜14世紀頃のオランダとドイツの北海沿岸地帯で は、10万人以上の人々が悪天候で死亡したと推定されています。また、この頃 の度重なる嵐の襲来で、低地ではありながら比較的地味が肥えた優良な農地で あった土地が巨大な内海に変わってしまい、ザイデル海(19世紀に堤防が繋が りアイセル湖となる)が誕生したとされています。15〜16世紀になっても度々 大きな嵐がこの地方を襲い、しかも寒冷な気候が続きました。そして、この激 しい気象の正体は、イギリス南部からイギリス海峡を越えて北海へ吹き抜ける 低気圧であったことが近年の研究で明らかになっています。 ところで、フランドル諸都市が隆盛を誇るようになる13世紀頃より前のフラン ドルの北部の海岸地方、つまり現在のオランダあたりは、そのほとんどが荒 地、湿地帯であり、良くてもせいぜいが牧草地という不毛の土地でした。従っ て、この頃のネーデルラントの中心地は現在のベルギー地方にあたる地域でし た。中世のベルギー地方(フランドル伯領、ブラーバント公領他)では、封建 法(9〜13世紀頃までにローマ法やローマ教会法(カノン)の影響を受けてヨーロ ッパで成立していた慣習法で、成文法か不文法かは問わない)上はフランドル 伯領がフランス王の支配下に属し、他の地域は神聖ローマ帝国に属していまし た。やがて、およそ13世紀頃から、この地方に住む人々は引き続く悪天候へ 命懸けで挑みながら、フリースラント語(オランダ゛北部地方の言語)でテル プと呼ばれる干拓手法(現在、テルプは“村落”の意味に変化)で新しい土地 の造成に取り組んできたのです。なお、フリースラント語はネーデルラントで 特殊な位置を占める言語で、それはアングロサクソン語(英悟)と低地ドイツ 語の中間に位置する言葉です。 やがて、この地方には多数の小都市群が出現し始めます。この地域には悪天候 という自然条件の厳しさ(マイナス面)を十分に補うだけの大きなメリット (プラス面)があったからです。それは、この地方が事実上のヨーロッパの交 通・交流の中心地であるということ、つまりこの地域が地政学上の有利な条件 を備えていたということです。現在でもオランダ・ベルギー地方がEU(欧州連 合)本部など国際機関の中枢機関が立地するヨーロッパの中心地であるのと同 様に、ここは古い時代から政治的にもヨーロッパの中心的なロケーションであ ったということです。14〜15世紀、この地方はフランスのヴァロワ系・ブルゴ ーニュ公国(1361〜1477)の支配下に入っていましたが、15世紀末にはハプスブ ルグ家の領有(1482〜)となります。やがて16世紀前半には、宗教改革の嵐の なかで、ドイツから急進的なプロテスタントの一派である再洗礼派(幼児洗礼 を認めず、自覚した成年の洗礼のみを認める)の人々が流入し、北フランス経 由でカルヴァン派が入ってきました。 なお、古代ローマ帝国時代には、現在の ベルギーからオランダの一部にかかる地域はtoxandriaと呼ばれており、ヨーロ ッパにおけるローマ帝国軍団の戦略上の中枢拠点でした。その中心地がほぼ現 在のベルギー付近に当ります。 1477年、完全なロタリンギア(9世紀、ヴェルダン条約でフランク王国は東西フ ランクとロタリンギア(ロタールの王国)に分割されたが、ロタリンギアの王 ロタール(Lothar?/ca.795-855)の死後のメルセン条約で東西フランク王国と なる)の復活とヴァロワ・フランス王家内での覇権に野心を燃やすシャルル・ ル・テメレール(突進王または豪胆王/Charles le Temeraire/1437-1477)が、 同じヴァロワ系のフランス王・ルイ11世(Louis??/1423-1483)と対決した 「ナンシーの戦い」(1467)で戦死すると、フランスのヴァロワ家に対抗する テメレール系統のヴァロワ家の画策で、テメレールの一人娘マリー(その後 も、旧ブルゴーニュ公国の中心地ゲント(現在はベルギーの都市)に住み続け たためブルゴーニュのマリー呼ばれた/Marie de Bourgogne/1457-1482)とオ ーストリア大公マクシミリアン(ハプスブルグ家)の政略結婚が成立します。 ここで「ブルゴーニュ公国」は消滅し、フランドルはハプスブルグ家の支配下 に入り、フランドル以外の旧ブルゴーニュ公国領はフランスの支配地となった のです。更に、1482年、ブルゴーニュの女伯爵マリーが放鷹(鷹狩)の途中で 落馬して死去するというアクシデントが起こり、マクシミリアン(Maximilia n/1459-1529)は1493年に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(Maximilian?/ 位1493-1519)となってフランドルも直轄支配することになります。 その後、このマリーの遺児二人、フィリップ美公(Philipp der Schone/1478-1 506)とマルガレータ(Margarete/1480-1530)は、中世から近世へのエポック をつくる重要な役割を果たすことになります。それが《太陽の没することな き、《世界大帝国スペイン》が成立するための序曲となったのです。フランド ルのゲント(ヘント/Ghent)に住むフィリップ美公は、スペイン王女ファナ(J uana/1479-1555/後に狂女ファナと呼ばれる/スペインのフェルナンド(アラゴ ン国王・Fenrando?/スペイン国王・Fernando?/位1479-1516)とイザベル(ス ペイン国王・Isabel/位1474-1504)両王の娘)と結婚してニ男一女をもうけま す。その長男が後の神聖ローマ皇帝カール5世(Karl?/位1519-1556/スペイン 王カルロス1世)で、次男はオーストリア・ハプスブルグ家を継ぎ兄カール5 世に次いで神聖ローマ皇帝となったフェルディナンド1世(Ferdinando?/155 6-1564)です。なお、スペイン王女ファナの生涯を描いたスペイン映画『女王 ファナ』(ヴィンセント・アランダ監督、ピラール・ロペス・ディ・アジャラ (ファナ役)、ダニエル・リオッティ(フィリップ美公役)、2001年制作、htt p://kadokawa-pictures.com/juana/index02.html))が日本でも公開(2004 年)されました。それは時代考証がとても優れているので、映画『女王ファ ナ』を鑑賞すると、このような歴史的エポックの雰囲気を十分に堪能すること ができます。 また、ブルゴーニュの女伯爵マリーをめぐっては、イギリスのマグナカルタ (大憲章/1215)と同等か、それ以上の意義があるという点で、歴史的に決して 無視できる筈がない重要なエピソードがあります。しかし、このことは、事実 上、歴史的に殆ど無視同然の扱いを受けてきました。驚くべきことに、それは イギリスの「ピューリタン革命」(1642-1649)を遙かに先取りしたものであ り、近・現代における本格的な民主主義のルーツとされる出来事です。また、 これは「オランダ独立戦争」(1568-1609)の大儀を支える一つの伏線にもなっ ています。それは、1477年にネーデルラントの市民(大商人やブルジョア階層 の人々)たちが女伯爵マリー(神聖ローマ帝国皇帝の代理人たるブルゴーニュ のマリー)に自らのために「大特権」の要求を突きつけたという事件です。彼 らの要求は次のようなもの(●)でした。 (この「大特権」要求の歴史的な意義の詳細については、次のBlog記事を参照 → 『平和主義は道徳的孤立主義か?』http://blog.goo.ne.jp/remb/e/3bac1d 26af7f077048346f3dea969f8f ) ●代表権なくして課税なしの原則を徹底する ●各州の承諾なしの新しい税の課税は認めない ●マリーは各州の承諾なしで戦争ができない ●各州・各政府の要職は地元の人間に与える ●オランダ語を公用語とする ●最高裁判所を設置し、裁判の控訴を認めて市民の人権を擁護する 一方、娘マルガレータは、ベルギー地方のメヘレンに居を構えて“フランドル の統治”(1559年、ネーデルラントの執政となる)に取り組みながらカール5世 に帝王学の教育を授けたので“ハプスブルグ・オーストリアのマルガレータ” と呼ばれています。カール5世を継いだ息子フェリペ2世(Felipe?/位1556-1 598)は、スペイン王国の最盛期である“太陽の没することなき帝国”を実現し ました。そして、カール5世はスペイン、ネーデルラント(ベルギー・オラン ダ)、ドイツ・オーストリア・ハンガリー、ティロル、南イタリア(ナポリ王 国・シチリア・サルディニア)、新大陸植民地、フィリピンという広大な領地 の支配に加えてポルトガルも併合します。 ネーデルラント(ベルギー・オランダ地方)は、このように中世から近世に至 る気象と歴史の移り変わりを概観するだけで、地政学上の重層的で多面的な特 徴が浮かび上がってきます。現代のオランダの気候はメキシコ湾流のおかげで 冬季も比較的温暖といえますが、いったん北海方面から下りてくる寒気団と大 陸内部の熱気団が合流するや大気の状態が不安定となり、多くの雲が発生し て、雨足が速くなり、激しく変化する気まぐれな気象状態(変化の激しい悪天 候)をもたらします。それは、13〜14世紀頃の厳しい気候の再現でもありま す。また、ネーデルラント(低地地方)の呼び名のとおり、この地域はヨーロ ッパ北西端の最も低い土地にあり、アルプスから発しドイツを南から北に流れ るライン及び北フランスの山岳地帯から流れ出るマースとスヘルデの三つの川 が、ここで北海に注ぎます。このため、おおよそ、この土地を海洋沿岸部と大 陸部に分けることができるとしても殆どが平坦地であり、オランダの国土は最 高の標高でも約300メートルに過ぎません。 このように平坦な土地を流れる河川の歴史は、必然的に、この地域での人流・ 物流を活発なものとしてきました。また、ほぼヨーロッパの中心に位置するこ ともあって、ネーデルラントはヨーロッパの文化・言語・政治権力が出会い、 交流し、また激しく衝突する場所でもありました。ネーデルラントには、EUの ユーロポート(ロッテルダム)、ブリュッセルのEU本部、ハーグの国際司法裁 判所などヨーロッパと民主世界の実現を目指す世界的機関の中枢機能が点在 し、ゲルマン文化とラテン文化、そしてオランダ語、フラマン語、ワロン語、 フリースラント語、ドイツ語、フランス語がモザイクのように点在した形で共 存しています。これらの特徴を一言で表現すると“絶えざる人的・物的交流と 流動的な異文化の坩堝”といえるようです。ここでは、今も決して止まること なく、多様性(マルチチュード)を受け止める寛容の精神環境を維持しなが ら、文化的な『知の積み重ね』が続行されています。 一方、このように重層的な精神環境の坩堝の中を、約700年にも及ぶ長い時間を かけた干拓事業(オランダのインフラ創設)という極めてリアルで困難な歴史 の柱が貫いているのです。この特有の自然・精神環境こそが「オランダの光」 を析出するプリズムの働きをしているのかもしれません。このように個性的な 風土のプリズムの中でオランダ独自の「清潔感と日常生活重視」という現実的 なバランス感覚に満ちたアイデンティティ(注/参照、下記の<参考>)が織り 上げられ、エラスムス(Erasmus/1469-1536/人文主義者/16世紀)、スピノザ (Spinoza/1632-1677/汎神論の哲学者/17世紀)、グロティウス(Grotius/158 3-1645/自然法・国際法の父、法学者/17世紀)らに代表されるネーデルラント 特有の「寛容と自制心」を尊重する精神・文化環境を、そしてファン・アイク (Hubert van Eyck/ca.1370-1426)、ロベール・カンパン(Robert Campin/c a1375-1444)、レンブラント、フェルメールらの個性的な絵画芸術もたらして いるのです。 (この稿のまとめ) ●人類が地球上に存在するかぎり、「戦争と平和」は人類の永遠の課題として あり続けます。しかし、仮に人類が滅亡した暁には、最早、それらのことは存 在する意義がまったくありません。それは、一切の人間が死に絶えてしまった 地球上で高度に発達した「情報」と「コンピュータ」が蔓延っても何の意味も ないのと同じことです。一切の人間が死に絶えてしまった地球上で、莫大な量 の札ビラ(紙幣)が空を舞っても何の意味もありません。 ●百歩譲って、仮に人類が滅亡すべき運命にあるとしても、その『人類滅亡へ の最短コース』を提供するのが<タカ派が好む戦争>であり、そのための迂遠 な道を提供するのが<リベラリストが好む平和>です。愚かなことだと思いま すが、今の世界は、ひたすら、その『人類滅亡への最短コース』を辿るため” に有るだけの知恵を絞り、その成果としての「経済と科学技術」を、ひたす ら、その『人類滅亡への最短コース』を急ぐために使い切ろうとしています。 ●このような儚(はかな)い希(のぞみ)と化しつつある「平和」のために重 要と思われるキーワードこそが「オランダの光」と「ディアロゴスの現象学」 (H.D.ガダマーの解釈学的哲学/「生政治」(Bio-Politics)に対抗し得る、コ ミュニケーション能力を取り戻すための手法/参照、http://anthropos.hss.shi zuoka.ac.jp/shama/taiwa3.htm)です。前者は感性・感覚次元でのコミュニケ ーション論に、後者は言語・論理情報次元でのコミュニケーション論に新たな 道を提供することが期待されています。また、これらコミュニケーション論で 触媒的な役割を担うという意味で重要なポイントと目されるのが「新しいアイ デンティティ論」(下記(注)参照)です。 ●微かな希(のぞみ)と化してしまったとはいえ、やはり人類は、こけおどし の『ネオ帝国論』などに怯まず、歴史に学びながら「平和」を求め続けなけれ ばならないのです。本来は「平和とリベラリズム」を望むはずの多くの人々が 「タカ派と戦争」を支持するという『現代日本におけるコミュニケーション能 力の甚だしい劣化』から立ち直るために、我われは「オランダの光」を真剣に 探求する必要があります。具体的には、現在、進行しつつある英国「ブレア首 相の失墜」(ブッシュにシッポを振りすぎてイラク戦争の泥沼へ嵌った上に、 上っ面の看板を書き換えただけのサッチャリズム(小さな政府)の失敗だと過 半の国民から厳しく批判されている)の問題を直視する必要があります。 <参考>アイデンティティ(Identity)についての新しい考え方 ▲Identityは人格における存在証明または同一性と定義される。しかし、その 内容を具体的に見ると次の四つの次元がある。従来はパーソナル・アイデンテ ィティについてのみ注目される傾向があったが、今は、これら4つの次元を幅 広く観察し、コミュニケーションの回復の観点から重層的に理解することの重 要性が認識されつつある。 ●パーソナル・アイデンティティ ・・・個人、家族、地域などとの結びつきから生まれるIdentity。 ●クラス・アイデンティティ ・・・階級、貧富の差、国家・国民・民族意識、政治・経済関係などとの結び つきから生まれるIdentity。 ●ジョブ・アイデンティティ ・・・職業・仕事・専門性などとの結びつきから生まれるIdentity。 ●カルチャー・アイデンティティ ・・・宗教・文化・趣味・教養・知的水準・歴史認識などとの結びつきから生 まれるIdentity。 |