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[2006-05-30“形象不可能なるものの形象への降臨、受胎告知図”からの反照] へのコメント&レス(続々) renshi 『toxandoriaさま 「認識論的または論理的にイディア界と実在界の関係を説明することに苛立ち を感じた(或いはアカデミズムと科学が権力と癒着した)場合」という叙述 は、鋭敏だと思います。正に、「苛立ち」が、アカデミズムや権力者にはある と思います。つまり、差異を理解することができないために、「苛立つ」のだ と思います。そして、同一性の”分かり安さ”に安住して、傲慢になるので す。また、「狂信の臭いが巣食って」いるというのも、同感です。私が、今日 の日本社会に対する違和感は、ここにあると思います。自己の差異を直視する ことを恐れ、回避して、同一性の「分かり安さ」に集合的に没入しているので す。それは、狂信です。また、詐欺・ペテンです。「これは、部族社会的・家 産制的原理と擬似宗教観による呪縛的な使命感で大量虐殺の残忍な歴史を刻印 した絶対王制時代の権力者たちの姿に重なります。」 という指摘は、日本の癌を的確に抉っています。私自身、結局、これを憎悪 し、ずっと、根絶やししたいと思っている敵です。虫酸が走る傲慢な病巣で す。単純化すれば、父権制ということになると思います。 ディッケンズを想起されていますが、私は、イギリス文学は、正しくは、ケ ルト・ブリテン文学と言うべきと考えています。ケルト文化はおそらく、イタ リア文化の基層のエトルリア文化と通じると感じています。これは、一言で言 えば、東洋文化です。ディッケンズには、直観では、ケルトの血があると思い ます。ケルト文化は、東方キリスト教と結びつきました。聖母マリアの母、聖 アンナ崇拝があります。これは、実に、東方的です。自然的です。マリア信仰 は、ここに通じていると思います。』 # toxandoria 『renshiさま、コメントありがとうございます。 ケルト文化と東方キリスト教、聖アンナ崇拝などには大いに興味深いものがあ ります。カトリックの中にある黒マリア信仰や観音信仰も連想しました。 芸術論的にも、自然との一体感を重んじる東洋美学に惹かれるものがあります が、キリスト教文化も究極には“自然との一体化の問題”まで行き着くのでは ないか、と思っています。 このような観点からすると、プロテスタント的思考を淵源とする新自由主義思 想が日本で大いに誤解されていることを危惧しています。詰まるところ、新自 由主義思想は自然破壊の思想であり、だからこそ欧米では、例えば“苦悩する 拡大EU”の姿に見られるように、その矛盾を克服しようとする努力がキリスト 教社会の中から芽生えています。アメリカ社会すら、その例外ではあり得ませ ん。 しかし、例えば小泉政権が行ったヤミクモの競争原理導入の弊害で分かるとお り、日本国民の多くは自らが既に手にしているはずの貴重な価値観(東洋哲 学・美学的な価値観と社会観)までを、この競争原理(新自由主義思想)の名 の下で破壊し尽そうとしています。 そして、この間隙に侵入してきたのが複数の妖しげなカルト教団(仏教系、キ リスト教系)の暗躍です。しかも、恐るべきことは小泉・安倍など一部の“国 民的な人気ド、好感ドが大きい寄生政治家”(民主党の一部も含む)たちが、 これらカルト教団の支援(愚民層・弱者層を餌食にした霊感商法などからの上 納金と選挙票の取り纏めなど)を受けて政権維持体制の確立を図りつつあるこ とです。 このままでは、日本が世界から孤立した非近代的な“妖術国家”になるような 懸念を覚えています。』 |