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[2006-05-30、“形象不可能なるものの形象への降臨、受胎告知図”からの反照] へのコメント&レス 2006.6.4 [コメントを書く] # renshi 『イオン氏のコメントは、とても興味深い。 「受胎告知をする天使 ガブリエル はイスラーム 哲学 のイブン・スィーナー (アヴィセンナ)などでは知性世界を形成する十の知性体のうちの最下位 の存 在 に結びつけられることがあります。」 と述べられているが、これは、カバラの10のセフィロートを想起させる。最 下位とは、マルクトを想起させる。また、グノーシス主義では、ソフィアであ る。 さらに、能動知性と述べている。これも意味深長である。スピノザの能動的 観念を想起する。 この問題はかなり微妙であり、速断できる知識は私にはない。また、イデア 界のメディア化について触れられているが、イオン氏の解釈はそれなりに正し いと思う。聖母マリアをどう解釈するかが問題だと思う。私は、解釈は、聖母 マリアは、不連続的差異論のメディア界なのである。しかし、聖母マリアは地 上的存在でもあるから、事情は複雑である。不連続的差異論的には、聖母マリ アは、メディア界/現象界の境界のメディア面的存在ではないだろうか。そう 考えると、天使ガブリエルとつながるだろう。 今は、簡略的に答えることしかできないが、受胎告知とは、メディア界の現 象界化への寸前であると思えるのである。メディア/現象境界では、近代とな る。それ以前である。だから、メディア/現象教化のメディア面である。 とまれ、十の知性体とカバラの十のセフィロートは一致するとして、それら は、どこに属するのだろうか。思うに、これは、メディア界ではないだろう か。それとも、イデア界なのだろうか。後で、さらに考察したい。』 # toxandoria 『renshiさま、コメントありがとうございます。 イブン・スイーナ、カバラ、グノーシス主義などにも強く興味を惹かれます が、未だ十分な知識を持っておりません。ただ、renshiさま、イオンさまなど とのコメントの遣り取りのおかげで、聖母マリアの受胎告知の意味が自分なり に少しづつ分かりかけてきたような気がしております。 renshiさまの“受胎告知とは、メディア界の現象界化への寸前であると思え る”には、重要な意味があると思います。卑近な例になりますが、日本の合計 特殊出生率が今や危機的な状況に嵌っていることにも深いところで繋るのでは ないかと思います。この問題には、明らかに長く続いた政治の貧困・暴走と日 本人の民主主義に関する特殊な意識の問題が深く根を張っているようです。決 して、社会的・経済的・法制的・労働条件的ないしは生物学的条件だけによる ものではないと思います。 16世紀のアルバ公が統治する時代のネーデルラントの画家P.ブリューゲルの “決して偽ることができない目”を再認することが重要ではないかと思ってい ます。P.ブリューゲルは、宗教改革からオランダ独立戦争大動乱期に生きた画 家ですが、スペイの暴政の下でしたたかに生きた民衆・農民たちの姿を独特の 静謐な手法で描きました。 そこにあるのは“決して偽ることができない画家の目”であり、当然ながら聖 母マリアの受胎告知の意味も凝視していたはずです。そこで、中野孝次の名著 『ブリューゲルへの旅』を読み直しておりますが、この本が出版されたとき、 高階秀爾、中村雄二郎、山口昌男らの錚々たる諸氏から散々な批判・攻撃を受 けた事実があったことを思い出しました(このことは、著者自身が付記の『著 者ノート』の中ではっきり書いています)。 オーソドックスな価値観とアカデミズム、経済至上主義などの弊害は一種のフ ェティシズムに似た病理現象のようなものだと思います。現在、話題沸騰中の 「文化庁による和田某画伯の贋作公認」や「グリーン・メーラー村上ファンド とホリエモンの騒動」などの問題も、この病理に繋がっていると思います。 余談ですが、ここ数日は美術館めぐりで過ごしました。ワタリウム美術館(渋 谷/岡倉天心・関連資料の収集ほか)、ロダンとカリエール展(西洋国立美術 館)、プラド美術館展(東京都美術館)、ポンペイの輝き(bunkamura)、雪舟 からポロックまで(ブリジストン美術館)・・・いささか逆説的な言い方にな りますが、やはり折に触れてオリジナルの“オーラ”に触れることが大切だと 思いました。 仕事の関係などもあり、少し記事更新のペースが落ちると思いますが、これか らもどうぞよろしくお願いします。』 |