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[暴政]卑猥な妄想の政治権力が玩ぶ「二つの愛国心」 2006.5.27 【画像】ティントレット『ヴァルカヌスに見つかったマルスとビーナス』Tinto retto(1518-1594)「Vulcanus Takes Mars and Venus Unawares」 1550 Oi l on canvas, 135 x 198 cm Alte Pinakothek 、Munich ・・・お手数ですが、この画像は下記URLでご覧ください。 http://www.cartage.org.lb/en/themes/Arts/painting/paintings/bigphotos/T/vulcan.jpg ここに掲げた絵画は、ミュンヘンのアルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothe k、http://www.pinakothek.de/alte-pinakothek/)にある、ヴェネチア派の巨 匠ティントレット(Tintoretto/1518-1594)の名画『ヴァルカヌスに見つかった マルスとビーナス』です。この絵のテーマは、アポロ(光明・医術・音楽・予 言を司る理知的な神)に情報を与えられたヴァルカヌス(大神ゼウスの子でロ ーマ神話の“火の神”/噴火山、ヴァルカン半島の語源)が妻ビーナスの不倫 (お相手はローマ神話の屈強な“軍神マルス”で、間抜けにも右奥のベットの 下端から兜の頭が見えている)の現場に踏み込んだ瞬間の描写です(伝承では ヴァルカヌスが二人の不倫の現場に網を仕掛けたことになっている)。そし て、この絵についてのアカデミックでオーソドックスな美術史上の解釈は「天 網恢恢疎にして失わず」(天の網は広大で、その目は大まかなようだが、実際 は何一つ取りこぼすことはない)、つまり妻たる女性たちの不貞への戒めとい うことになっているようです。 <注>ティントレット :色彩をデッサンの単なる添え物としてではなく本格的に色彩の官能を追及し たヤコポ・ベッリーニ(Jacopo Bellini/ca1400-ca1470)、ジオルジオーネ (Giorgione Barbarelli/1478-1510)、ティツィアーノ(Vecelli Tiziano/1 476-1576)、ヴェロネーゼ(Paolo Veronese/1528-1588)らと並ぶヴェネツィ ア派の画家の一人で、ヴェネツィア派の最後を飾る鬼才とされている。ティン トレットは後にヴェネツイア派の伝統だけに満足できずミケランジェロの作風 を真似るようになり、解剖学と遠近法および人体の動きの正確なデッサンの研 究に没頭した。その画風の特徴は、画面に斜めに射す光や逆光を巧みに使い分 け、明暗の色調を効果的に配合して複雑な構図から独特の深みがある立体感を 作る点にある。その結果、彼は従来のヴェネツイア派とは異質な劇的運動感が ある作風を完成した。 ところが、このようなアカデミズムの解釈に対し現代フランスの美術史家ダ ニエル・アラス(Daniel Arasse/1944-2003/参照、http://fr.wikipedia.org/ wiki/Daniel_Arasse、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060516/ヨーロッ パで著名なイタリア・ルネサンスを専門とする美術史家)は異を唱えます。著 書『なにも見ていない』(宮下志朗・訳、白水社刊、原著:Daniel Arasse『O n n'y voit rien、Descriptions』、Publisher Denoel、2000)の中で、彼 は次のようなことを述べています。 ・・・この絵のヴァルカヌスのしぐさと目つきは、道徳の勧めなどよりも、む しろアレティーノ(Pietro Aretino/1492-1556/イタリアの風刺文学者、劇作 家、艶本作者)の卑猥さを連想させる。ヴァルカヌスは自分が何を探しにきた のかすっかり忘れている。ヴァルカヌスには、妻のソレしか見えなくなってい るのだ。このことは、ベルリンにあるティントレットの下絵で明々白々なの だ。だから、その次の瞬間に何が起こるかを知りたければ、ヴァルカヌスの背 後にある大きな鏡を見れば済むのだ。つまり、この絵は定説となっているよう な教訓の押し付けではなく、実は風刺的でコミカルな、或いはパラドキシカル な作品なのだ。つまり、「貞節の愛がすべてに勝つ」ではなくて、「“情念 (妄想・欲望)的”な愛は“省察(理知・静観)的”な愛”に必ず勝つ」とい う「人間世界(政治的な世界)のリアリズム」(=ポリティカル・コレクトネ ス/Political Correctness政治権力が保証する正統的なものがすべてに勝つ (喩え、それが卑猥な妄想であったとしても)という冷厳な現実)を描いてい るのだ。・・・ 2006.5.25付・朝日新聞紙上(インタビュー記事「戦争は総括できたのか、 歴史と向き合う」)でジョン・ダワー(John W. Dower/著書『敗北を抱きしめ て』でピュリッツアー賞を受賞した米国の歴史学者)が次のようなことを語っ ています。 ・・・いまだに「戦後」という言葉で第二次世界大戦以後の時代をひとくくり にする用法は世界でも珍しい。それは、我われ日本人の心の中で「戦争」が総 括(反省)されていないからではないか。現在の米国は保守派が非常に強く、 ナショナリスティックになっている。この米国の保守派は、日本に憲法9条を 改正して、もっと軍事的役割を果たして欲しいと思っている。それを進める一 つの方法が、日本の戦争責任や過去の問題を曖昧にして、日本国内の軍国主義 批判を弱めることではないか。死者を追悼しなければならないのは、そのとお りだが、なぜ靖国なのか。小泉首相らが靖国に参拝することで、追悼と政治が ごちゃまぜになっている。そもそも、愛国心には二種類ある。一つは、正しか ろうが悪かろうが祖国を愛するという態度。それは自分の国がやることは何で も正しいという考え(情念的ナショナリズム)である。もう一つの愛国心は、 自分の国をもっとよくしたいので、過去の失敗(歴史)から学ぶという冷静な 態度である。より平和な世界を築くためには、後者が唯一の道だと思ってい る。・・・ ノーマン・コーン著『魔女狩りの社会史』(山本 通・訳、岩波書店刊)に よると、ヨーロッパの16〜17世紀に魔女狩が盛んに行われた(中世から盛んに 魔女狩りが行われてきたという定説は、このノーマン・コーンらの研究で否定 されつつあるが・・・)最大の動因は、近代から現代へ向かう過渡期(マニエ リスム・バロックのエポック期)の宗教的・社会的大変動が一般の人々を精神 的な大混乱状態へ投げ込んだため、庶民層(特に無教養な下層の人々)の不安 がもたらした「妄想」(情念の制御が困難となったことによる倒錯的・加虐的 な欲望の噴出)と、政治権力者の不安と疑心暗鬼がもたらした「妄想」の二つ が一致した(共謀する結果となった)ことにあったようです。恐るべきことで すが、このことは現代日本で2005年9月11日に起こった「小泉首相による郵政 民営化参院否決→衆院解散・総選挙クーデター」による政権側の大勝利の背景 とオーバーラップします。これに加えて、政権側が計略的に仕掛けた“B層戦 略”の効果も功を奏しました。結局、小泉批判勢力と抵抗勢力は「魔女的な害 をまき散らす一群」として見事に排除される結果となったのです。 ところで、既述のダニエル・アラスの「二つの愛」とジョン・ダワーの「二 つの愛国心」の敷衍を試みると次のように考えることができます。つまり、 「男女関係(エロス)の愛、神(信仰)への愛(パッション)、肉親の愛」と 「愛国心の愛」は根本的に異なります。なぜなら、前者はいわば「盲目的な情 念の愛」であり、後者は「冷静で省察的な愛」で“あるべき”だからです。無 論、放置すれば「愛国心の愛」も情念的なものと(敢えてナショナリズム化) することは可能です。しかし、それが、どれほどの悲惨な戦争経験(大量殺 戮・大量殺人)と、どれほど凄惨極まりない残酷な“魔女狩り”の悲劇をもた らしてきたかは正しく歴史を学べば分かるはずです。更に、実際の魔女狩りで は、魔女であることを証明する常套手段が「異端審問官の拷問による自白の強 要」と「複数の知人や隣人による密告・証言を取ること」であったことも忘れ てはなりません。この点は、今やまさに法案成立の瀬戸際に立つ「共謀罪」の 問題にも繋がります。このように見れば、「愛国心の強要」と「共謀罪関連法 の整備」は表裏一体であり、この二つが繋がっている問題であることが理解で きます。 また、ここで想起すべきは「憲法」の「授権規範性」の問題です。つまり、 憲法は政治権力者が一般国民を監視し、その行動をむやみに縛るためのもので はなく、そもそも、それは政治権力者の違法な行動を国家の主権者たる一般国 民が監視するためにこそ存在するのだということです。たとえ民主国家であっ ても、一国の総理大臣など政治権力者の権限は強大なものであることを忘れる べきではありません。しかも“権力は必ず腐敗”します。その腐敗の病原菌は “生身の人間である政治権力者の情念と卑猥な欲望”です。ここでこそ、我わ れはティントレットの名画『ヴァルカヌスに見つかったマルスとビーナス』の 中で、ヴァルカヌスが何をしようとしていたのかを想起すべきです。この時の ヴァルカヌスこそが、聖人ならぬ普通の人間である政治権力者の実像(=性悪 説のリアリズム)なのです。 |