日本語は難しい。あまりの難しさに、途方にくれることもある。
日本で何年も苦労の日々を過ごしたとしても、他人の言葉を一生懸命まねて勉強しても、日本語を完璧にすることは至難の業だ。
永遠にからみ合っているかに思える複雑な格助詞、副助詞、終助詞。いつもめまいを感じさせられる未然形、連体形、命令形……、あれこれと考えをめぐらして、よし理解できたと実感しても、胸いっぱいに溢れる思いを日本語にしようとすると、言葉はたちまちひどく単調な調子になり、まるで小学生の作文のようになってしまう。怒って文句を言っているときでも、たどたどしい日本語のせいで相手の笑いを誘ってしまう。
日本語は、気高く傲慢な女神のようで、我々の胸にはなかなか簡単には飛び込んできてくれない。
十年前から、中国語を学ぶ日本のお年寄りのグループと付き合っているが、偶然に彼らの書いた作文をまとめた五冊の文集を見る機会があった。最初のころはまるで金銭出納帳か備忘録のように平板な中国旅行記が並んでいるのに、最近のものはなかなかしっかりした中国文化探訪の論述になっている。ある老婦人は感慨深くこう言った。「中国語をしっかり勉強したいんです。中国語は世界で一番美しい言語ですから。」そうした言葉に出会うたびに、心を動かされる。
だが、日本語こそ世界で一番美しい言語なのではないだろうか。五千年の歴史を持つ偉大で豊かな中国文化が、大和民族の純朴で勤勉な精神の中に浸透している。夏目漱石、川端康成から、大江健三郎、村上春樹まで、日本語というひときわ高くそびえる大樹は、数え切れないほどのすばらしい成果を残してきた。
中国語が雄壮で偉大なシンフォニーであるとすれば、日本語は豊かな表現力で人をひきつけるセレナーデである。
運命の巡りあわせで、日本語が第二の母語となったからには、それに立ち向かう以外に選択肢はない。たとえ一生をかけて努力しても、あるいはその片鱗に触れることしかできないかもしれない。しかしあの中国語を熱心に学ぶ日本のお年寄りたちが、くもりのない鏡のように無言で真理を照らし出してくれる。全身全霊で日本語という世界で一番美しい言語を感じ取らなければならないということを。 |