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[情報の評価]『1439年、東西統一公会議』の現代的意味(2) 2006.4.19 【画像説明】 ポントルモ『(大)コジモの肖像』 Jacopo da Pontormo(1494-1556) Co simo il Vecchio c. 1520 Oil on panel, 86 x 65 cm Galleria degli Uffi zi, Florence <注>お手数ですが、この画像は下記URL(★)をクリックしてご覧ください。 ★http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/p/pontormo/1/06cosimo.html 1520年頃、イタリア・ルネサンスの絵画は盛期ルネンサンスを越えて新たな個 性の時代、いわゆるマニエリスムの時代(ほぼ後期ルネサンスの時代に重な る)にさしかかっていました。ポントルモは、このマニエリスムの代表的な画 家の一人であり、すぐれた肖像画を残しています。マニエリスム(Manierismu s、Mannierism/http://www.salvastyle.com/collect/00_mannierism.html) は、カトリック側からの反宗教改革の気分とも結びついており、緊張・不安・ 熱情などの人間の内面世界を表出しています。 この『(大)コジモの肖像』は、それより以前に描かれた既存の肖像画などを 参照しながらメディチ家の“創業者”である(大)コジモを称賛する目的で描 かれたものです。このため、いわゆる写実的肖像画ではなく偉大なるメディチ 家の卓越した“創業者・(大)コジモ”(Cosimo il Vecchio/Vecchioは英語の elderに相当する語で、後のトスカーナ大公コジモ1世(Cosimo1/1519-1574) らと区別するためCosimo il Vecchioと呼ぶ慣わし)を『象徴する絵画』の創造 を意図して描かれた肖像画です。 (参照、下記引用:http://www.wga.hu/html/p/pontormo/1/06cosimo.htmlよ り) Ordinarily, Pontormo painted portraits studied from life, with a deepe r attention to the rendering of appearances than character and personal ity. The subject of this rewarding portrait is Cosimo il Vecchio, the f ounder of the Medici clan and the preeminent citizen of Florence durin g most of his explosive expansion in culture and finance in the fifteen th century. It is, of course, a posthumous representation painted, acco rding to Vasari, for Goro Gheri da Pistoia, secretary to the Medici. I t is based upon previous portraits, and particularly a medal, and is th us more a symbolic than a true physical likeness. 余談ながら、後期ルネサンスを彩るマニエリスム流の新しいリアリズム(人間 の内面を表出する新しい手法)のヴィジョン(ヴィジュアル・イメージ)は、 ヴェネチア派の色彩と一部共鳴しながらバロック絵画、ロマン主義絵画そして1 9世紀末の象徴主義絵画へと伝えられてゆくことになります。他方、15世紀の ヤン・ファン・アイク(Jan van Eyck/ca1390-1441)など個性的な中世ネーデ ルラント絵画の精緻なリアリズムを受け継ぐ17世紀フランドルのバロック絵 画、つまりレンブラント(Rembrandt Harmensz van Rijn/1606-1669)、フェル メール(Johannes Vermeer/1632-1675)なども、このマニエリスムの流れを引 き継いだ精華であると見做すことができます。 そして、この二つの流れを創り出した人物、つまり内面のリアリズムの出発点 を準備した人物こそが[『1439年、東西統一公会議』の現代的意味(1)]と[同 記事(Intermission)]で取り上げた、フランドルの油彩技法を初めてイタリア へ伝えたとされるイタリアの画家アントネッロ・ダ・メッシーナ(Antonerro d a Messina/ca.1430-1479)だと考えられます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』の舞台となった「1327」年から113 年後の1439年、ビザンツ(東ローマ帝国)皇帝ヨハネス・パレオロガス8世(J ohannes VIII. Palaiologos /1392-1448)を筆頭に多くの司教・神学者・官僚 たちから成る総勢700人を超える大集団が、コンスタンチノープルからフィレン ツェにやってきました。これは、1434年に政敵アルヴィッツイ(Alvitti Fam ily)の国外追放に成功して、フィレンツェの実質的な支配者となっていたメデ ィチ家の(大)コジモ(Cosimo de' Medici/ 1389-1464)が、深謀遠大な政治的 配慮から「東西統一公会議」をフィレンツェに誘致したためです(イタリアで初 めての公会議は1437年からフェラーラで行われていたが、フェラーラの財政的 困難と疫病流行に直面したため、教皇庁の金融を請け負うメディチ家の(大) コジモの申し出を受けて公会議はフィレンツェへ移転した)。 コジモは、ラテン語・ギリシア語・ヘブライ語・アラビア語・ドイツ語・フ ランス語を理解できる人文主義的な高い教養とともに権謀術数の政治感覚と希 代のビジネス感覚を併せ持つ異能の人物でした。コジモの内心の政治的狙い は、自分が大衆(ポーポロ・ミヌート/Popolo Minuto/小市民=ポピュリズム の語源)の味方であることを上辺で徹底的に装うことでした。この点、(大) コジモは天才的な偽善的策士でもあったようです。それは絶対多数を占める大 衆(国民の過半を占める小市民たち)の反感・羨望・嫉妬を招かないように上 手く仕向ける技に長けていたということです。 そこでコジモが採った戦略は、現代風に言えばメディア・コントロール(情 報操作)です。政治形態に関しては、表向き・形式的な(建て前上)の「共和 制」を絶対に破ることがないように気を配る一方で、各種の専門・審議委員会 や行政機関が親メディチ派で占められるよう背後から徹底した人選に目配りを する(財政・資金面が絡む人事権を独占)一方で、ゲシュタポ的な秘密警察組 織を巧みに活用しました。また、「情報操作」のために「メコネサンス象徴」 としての芸術・文学・学問及び祭り(今風に理解すれば祭りの主催はメディア 戦略)の活用が有効であることに気づいており、そのための主要な手段の一つ が御用学者たちを総動員することでした。(メコネサンスの詳細については、 以下のBlog記事を参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050419)コジモ は、このように周到な政治的配慮の下に1439年の「東西統一公会議」をフィレ ンツェに誘致したのですが、その具体的目的は下記の二点(●)にありまし た。 ●キリスト教・東西教会の融和の仲を取りもつことで、ヨーロッパにおけるフ ィレンツェの政治的・文化的地位を高める ●ビザンツとの親交を背景にして東方貿易に有利な立場をつくる いずれにせよ、この会議を誘致した効果は絶大で作戦どおりにコジモの名声 が一挙に高まりました。一方、ビザンツ側には、ひしひしと迫り来るオスマ ン・トルコの脅威に対抗するため、西方教会(カトリック)側、つまりヨーロ ッパ諸国へ支援を求めざるを得ないという背に腹を変えられぬ事情もあったの です。つまり、ティムール帝国(建国者ティムール(Timur/1336-1405)が15世紀 前後に中央アジアから西アジア辺りを支配した/彼らはイスラム化したモンゴル 人であり、シルクロードを結ぶ東西貿易の利益で栄えたが内紛とウズベク族の 侵入で衰退する)の滅亡後に勢いを増していたオスマン・トルコがビザンツ攻 略を虎視眈々と狙っていたのです。 しかし、このような努力もむなしく、1453年にコンスタンチノープルはオス マン・トルコの第七代スルタン、メフメット2世(Mefmet 2/1482-1481)によっ て滅ぼされることになります。その時、哀れにも誇り高い皇帝ヨハネス・パレ オロガス8世の首は円柱に高く吊されました。また、15世紀末頃にはヴェネチ アの画家ジェンティーレ・ベッリーニ(Gentile Belline/ca1429-1507/ヴェネ チア派の画祖とされるベッリーニ一族(父ヤコポ、長男ジェンティーレ、次男 ジョバンニ)の中で最も優れていた)がヴェネチアの友好使節としてトルコを 訪問してエキゾッチックなメフメット2世の肖像画(http://www.abcgallery.co m/B/bellini/gentile5.html)を描いたというエピソードがあります。 ところで、この会議に参加した文化的先進地・ビザンツからの来訪者たちは ギリシア語を使っていたため、会議では通訳が必要でした。しかし、これが契 機となってフィレンツェではギリシア語のブームが巻き起こり、ギリシア語の 学習とギリシア文化の研究が盛んに行われるようになります。この時に来訪し た学者たちの中にはベッサリオン(Johannes Bessarion/ca1395-1472)、ゲミ ストス・プレトン(Georgius Gemistosr Plethon,/ca1355-1452 )などのきわ めて優秀なギリシア哲学者(古代ギリシア哲学の研究者)たちがおり、特にプ ラトン学の最高権威であったプレトンは、コジモから懇請されたこともあって フィレンツェに暫くのあいだ逗留することになります。 この時、ギリシア語の原典に基づくプラトン派とアリストテレス派の激烈な 対立論争の熱風がフィレンツェ中に巻き起こりました。やがて、それはヨーロ ッパ中に大きな波紋となって伝播することになりますが、特にフィレンツェで は哲学分野での古代ギリシア研究が熱心に行われるようになります。このよう な動向の中で、(大)コジモは1440年に「プラトン・アカデミー」(http://j a.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%8 2%A2%E3%82%AB%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%BC)を創設します。この学園の中か らマルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino/1433-1499)に代表される「フィ レンツェ・プラトン主義」(新プラトン学派)のアカデミズムが興隆します。 このような歴史的な背景の中から、別に言えば壮大な“東西文化融合の坩堝” の中から、極限まで洗練されたヴィジュアル・イメージを伴う非常に完成度が 高い「フィレンツェ・ルネサンス文化」が開花することになったのです。 既に、[『1439年、東西統一公会議』の現代的意味(1)]で触れたとおり、 これに先立つ時代にもギリシア語からラテン語への翻訳、あるいはアラビア語 の文献からラテン語への翻訳の流れ(イスラム文化との交流ルート)が複数存 在しており、それらの影響も受けながら、特にイタリアでは他の地域に先駆け る形でウッチェルロ(Paolo Uccello/ca137-1475)、フラ・アンジェリコ(Fr a Angelico/1387-1455)、フラ・フィリッポ・リッピ(Fra Filippo Lippi/140 6-1469)、サンドロ・ボッティチェリ(Sandro Botticelli/ca1444-1510)らが 活躍を始める「初期ルネサンス」(1420年頃〜1500年頃)の時代に入っていま した。そして、この1439年の「東西統一公会議」の大きなインパクトを受ける ことで、さらにイタリアはフィレンツェを中心としてレオナルド・ダ・ヴィン チ(Leonardo da Vinci/1452-1519)、ミケランジェロ(Buonarroti Michelang elo/1475-1564)、ラファエロ(Raffaello Santi/1483-1520)らが活躍する 「盛期ルネサンス」(1500年頃〜1570年頃)の時代に入るのです。 (To be continued) |