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タイトル:「格差拡大の時代」(政治的事故)を予見したポール・ヴィリリオに学ぶ  2006/03/28


「格差拡大の時代」(政治的事故)を予見したポール・ヴィリリオに学ぶ
[希望のトポス]2006.3.28

  西垣 通氏(東京大学大学院情報学環教授/2005.3.14付夕刊・朝日新聞、連載
記事・ヒト科学21、最終回「自己組織的作用が動かす21世紀社会/一部引用は下記
ブログ記事★1を参照)によると、ウエブ・ページのリンクの仕方(例えば、ブロ
グサトのリンクの仕方)、つまりアクセス数の大きさは決して平等ではあり得な
いようです。従来型の常識で考えれば、誰でもがいつでもどこでも参加できると
いう条件(ユビキタス化の条件)がほぼ満たされているネット空間は、これこそ
が理想的な「自由の空間」であるはずです。ところが、アクセス数の大きさとい
う切り口で考える限り、この「自由の空間」で現実に起こっていることは独占・
寡占・集中のアナロジーで説明できるような現象なのです。そして、近年の経済
物理学などの研究により、この傾向を支えているのが「ベキ法則」(ベキ乗法則
/その詳細とグラフイメージは下記記事★2を参照/経済物理学については下記記事
★3を参照)であるらしいことが分かってきました。例えば縦軸にサイト数(x)
をとり横軸にアクセス数(y)をとると、この(x)と(y)の関係を示すグラフは
y軸に沿った殆んど垂直に近い急激な下りの曲線が、右に行くほど、なだらかな
下りからほぼ水平に近い傾向を見せるものとなります。そして、一般的には(a)
「絶えず入力があること」、(b)「ダイレクトな出力につながらず空間内部で凝
縮されて一時的に定常状態ができる」という二つの条件が「ベキ法則」を支えてい
ます。
★1 ブログ『綾川亭日乗』、http://d.hatena.ne.jp/andy22/20050316
★2 べき乗則(ベキ法則: Power Law)、http://gc.sfc.keio.ac.jp/class/2004_19872/slides/10/11.html
★3 ブログtoxandoriaの日記『日本の“格差社会の拡大”を助長する“情報の非
対象性”の問題』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060315

  そこで、この「ベキ法則」が成立する世界では具体的に何が起こっているのか
を見ると、既述のとおり、それは独占・寡占・集中のアナロジーで説明できるよう
な現象です。上の例で挙げたブログサイトのリンクの仕方について言えば、それは
ごく少数のサイトにアクセスが集中しているということです。殆んどのサイトは、
あまりアクセスがなく特定のサイトへ集中する傾向が見られ、グラフで言えば右端
の方向へ向かって集中・分散しています。このとき、その少数のブログサイトには
大量のアクセスが観察され、このようにアクセスが集中するサイトはネットワーク
用語で「ノード」と呼ばれています。つまり、そのネットワーク全体のアクセスは
「ごく少数のノードのアクセス」が独占的・寡占的・集中的に占有している訳です。
実は、このように独占的・寡占的・集中的な「べキ法則的分布」はインターネット
の世界に限らず、多くの自然現象や社会現象に見られることが知られています。例
えば、イタリアの経済学者・パレート(V.F.D Pareto/1848-1923/http://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/paretoslaw.html)が発見した所得分
布に関する経験則である「パレートの法則」があります。それは、経験的に「全体
の2割程度の高額所得者が社会全体の所得の約8割を占めている」ことが観察され
ることから導かれた法則で、全体規模等に関する前提条件次第ではありますが、こ
の法則に沿う現象が様々な場面で観察されています。例えば、「商品の品質管理の
重点項目について、その最上位2項目を徹底改善すると全体の約8割の改善に匹敵
する効果が得られる」、「全体の顧客数の2割で、売上げ全体の約8割を占めるこ
とができる」、「全学生の2割のレベルアップを図るように授業を工夫すると、学
校全体の学力水準が向上する」などです。

  また、地域ポテンシャル計測の基本は「人口」ですが、その「人口規模」と
「都市人口の順位」が「ジップの法則」(サイズがk 番目に大きい要素が全体に占
める割合が第1位の 1 / k に比例するという経験測/これも「ベキ法則」との関連
性があると考えられている/参照、
http://www2.chokai.ne.jp/~assoonas/UC203.HTML、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%83%E3%83%97%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87)に、ほぼ従うことが
知られています。例えば、第二位の都市人口は第一位の1/2、第三位は第一位の1/3
・・・という具合です。仮に、都市をノード、都市間人口の移動をリンクとする都
市間ネットワークを考えると、都市間人口移動の総容量(リンク総容量)が「ベキ
法則」に従うことが知られています(参照、下記記事★4)。なお、筆者(toxador
ia)が意図することとは少々異なる「下記記事の結論」へのプロセス(下記の記事
の中)で、丸太 一氏は次のように述べています。・・・このように地域の世界は
交代の殆んどない不平等な分布(人口状態の現実)が常態化する世界であり、地域
当事者にとって絶望が支配する世界です。しかし、ここでよく考えるべきことは
(我われは)何に絶望するのかということです。(なぜならば、)地域の発展を広
く考えるとき、発展のあり方は「地域の人口ポテンシャルを量的に高めたりするこ
と」だけではありません。・・・
★4 『丸田 一/新しい地域発展論−ベキ法則下での地域の生き方』、http://www.can.or.jp/archives/articles/20030527-01/index.html

  2006年3月24日付、読売新聞の[報道によると、トヨタ自動車の奥田会長が3
月24日に行われた名古屋市内の講演で、国民の貧富の差などで社会のゆがみが拡
大する「格差社会」について、“格差が拡大しても全体が底上げすれば問題ない”
と、格差そのものは問題視しない考えを示したようです。一方、2006年3月.26日付
・東京新聞は「記事・核心」(http://www.tokyo-np.co.jp/00/kakushin/20060326/mng_____kakushin000.shtml)で“日本経済がデ
フレにあえいでいた時期に誕生した小泉政権は、景気が回復軌道に乗るまでさまざ
まな事態に直面した。不良債権処理はヤマを越え、企業業績はV字回復を遂げたが、
各種データを分析すると、労働・生活面などで随所に「改革のひずみ」が生じてい
る。(途中略)企業の雇用コスト負担を示す労働分配率は一貫して低下。リストラ
による業績向上に比べ、家計部門が受ける恩恵が少ないことを意味し、景気回復の
実感が得られにくい要因の一つになっている。雇用形態も大きく変化。正規労働者
が減る一方、パートなどの非正規労働者が増加。学業にも仕事にも就かないニート
やフリーターがちまたにあふれ、若者の間での所得格差につながっている。生活保
護世帯数は増加の一途。それとともに公立小中学校で就学援助を受ける児童生徒数
は、2004年度が約133万人と2000年度と比べ4割近く増えた。自殺者数は3万人以上
で推移し、中高年を中心に社会問題化している。民間に自ら道を開くことを求めた
小泉政権下で、優勝劣敗が加速。結果的に、かつての日本で感じることが少なかっ
た「格差」が生じていることを数字は示している。”と分析しています。このよう
な訳で現在の日本における格差の拡大については、当記事でも度々取り上げてきた
とおり紛れもない現実であり、その現実に目を瞑る奥田会長の発言は、優秀企業を
自負する経営者にしては視野が狭く、下記記事(★5)で取り上げた「小泉首相の
開き直り『格差論』」と似たり寄ったりの大多数の国民を有象無象扱いにする暴言
です。
★5 ブログtoxandoriaの日記『小泉首相の開き直り“格差論”/外道の喧嘩場と化
した国会』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060202

  ここで視点を転じると、「小泉構造改革」がアメリカ流「マニュアル型経済シ
ステム」(市場原理主義のツール)への盲目的追従であったことは紛れもない事実
であり、このアメリカ型の経済システムを代表するのが、派手で目立つ看板を日本
中の都市部郊外沿いに林立させているコンビニ、大・中のショッピングセンター、
ラーメン店、焼肉店、ガソリンスタンド、サラ金の無人店舗、ゲームセンター、パ
チンコ店、ファミリーレストラン、ネット・カフェ、カラオケ店などです。しかも、
これらの仕様は全国同じ形とレベルで統一され、あるいはマニュアル&データベー
ス化されています。その一方で、全国に点在する稀少で美しい日本の自然と地方の
風土に根ざした個性的、魅力的、伝統的な人々の暮らしぶりが根こそぎ破壊されつ
つあります。つまり、今や日本の「地域経済」と「地域の生活空間」は限りなく取
り壊されようとしている訳です。同時にそれらを支えるシステムの稼動速度がIT技
術の進展とともに急激に加速しつつあることに注意しなければなりません。そして、
このように“効率化”された市場(店舗群)へ向かって“メディアのサブリミナル
効果に欲望を刺激されて動物化した消費者の群れ”が、恰も排水溝に流れ込む水の
ように吸い込まれて行きます。

  一方、この「マニュアル&データベース化」された職場で働く人々の実態(パ
ート・アルバイト等の非正規雇用が主体、正社員対比で劣悪な労働条件と低廉な労
働単価など)は、18世紀末〜19世紀前半ころに産業革命が本格化するイギリスで出
現した“悲惨の再現”であるかのようにさえ見えてきます。この時代のイギリスは、
利潤追求に傾斜した産業資本主義が確立した時代であり仕事の機械化と分業(フォ
ーディズムの源流)が発達して熟練工が不要となったため、資本家たちは賃金が安
くて済む子どもや婦人を労働力として扱き使うようになっており、また、当時の
“人権を無視された悲惨な労働者”たちは、飽くなき利潤を追及する資本家によっ
て低賃金と長時間労働が強制されていたのです(参照、下記記事★6)。ともかく
も、現代の日本では「消費者」と「働く人々」双方のメジャーな部分が「アメリカ
型市場原理主義の論理」によって、共に“動物化・家畜化”を強いられつつありま
す。彼らは無限の利益を生むために低賃金で働かされる擬似人間(ヒューマノイド)
への道を歩み始めたかのようにさえ見えます。また、恰も彼らは、リドリー・スコ
ット監督の映画『ブレードランナー』
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%89%E3%8
3%A9%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BC)
の惨めな“レプリカント”の境遇へ追い込まれているようです(参照、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%
A4%E3%83%89)。このように見てくると、現在、小泉政権によって押し進められて
いる「格差拡大政策」(大企業と中小企業の格差、中央と地方の格差、正規雇用と
非正規雇用の所得及び労働条件の格差、貯蓄のある者とない者の格差など)は、絶
対に回避できない冷酷な「ベキ法則」に支配された近未来のユビキタス社会(http://dictionary.sanseido.co.jp/topic/10minnw/011ubiquitous.html)が実現
しつつあるようです。そして、今の日本の状況は“少数の人間(勝ち組)と多数の
レプリカント(ヘタレ・ショタレ&負け組みの末裔ら)が住まう日本の未来社会”
へのプロローグであるかのように思われます。
★6 ブログtoxandoriaの日記『映画“オリバー・ツイスト”に見る小泉劇場“劣等
処遇原則”(格差主義)の原像』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060227

  ところで、イタリアの思想家、ポール・ヴィリリオ(Paul Virilio/1932-   /http://www.logico-philosophicus.net/profile/VirilioPaul.htm)は、このよ
うにIT(コンピュータ)技術と相俟ったテクノロジーやメディアの発展が、やがて
人間の知覚・心理・行動パターン、働き方、国家権力、企業のあり方などに深刻な
影響を与えるであろうと、早くから警告してきました。1960年代に建築家として出
発したヴィリリオは、1968年頃から思索活動へ重点を移します。やがて、近代化に
より「空間が壊れつつある」ことを直感した彼は、その崩壊に向かうリアリティを
「速度」の概念でて解き明かそうとします。また、空間距離と時間距離を縮小する
最新のテクノロジー技術(航空機・高速鉄道・自動車など)の中に「老化のアナロ
ジー」を発見します。つまり、人間の身体の老化と同様に、テクノロジーが高度に
発達した社会では「社会の運動能力と反射神経」が減退し、それが「技術の本質の
現れである大事故」になるのだと警告します。この論点は、近年のJR西日本の悲惨
な事故などを彷彿とさせて不気味です。また、1996年の著書『電脳世界』(翻訳、
1998年刊、産業図書)では、政治権力が通信手段の高度化(リアルタイムの実現)
によって「偏在(ユビキタス)・瞬間性・直接性」の三つの属性を支配するように
なり、今までにない「新しい神的な権力」を手に入れると警告しています。そして、
リアルタイム通信(ネット社会)の実現で姿を現すのは「直接民主主義社会」では
なく「極端な専制政治」であり、そこでは他者との関係をなし崩しにする「リアル
タイムによる政治権力の横暴」が出現するだろうと主張しています。

  ヴィリリオが「リアルタイムの横暴」で示唆することは、奇しくも、高度に発
達したIT技術の旗手を標榜(自認)する先端企業と与党政治権力の癒着・結合と
いうまことに醜悪な形で「横暴な政治の典型」を日本で見せつけてくれました。そ
れこそは他ならぬ「ホリエモンと自民党がつるんだ総選挙」であり、一連の「ライ
ブドア騒動」です。例えば、至極当然に聞こえるかも知れませんが、大きくとらえ
てみると今回のライブドア事件で“ホリエモン”(民)に犯罪者の烙印を押すこと
ができるのは紛れもなく「権力A」(司法、検察)であり、くだんのメール騒ぎで
自爆した民主党(民の代表たる国会議員)を、事実上、断罪し得たのは「権力B」
(行政/内閣)です。(無論、ここで“ホリエモン”を弁護するつもりではありま
せん/また、上手くつるんでいた筈のホリエモンと自民党が、どこでボタンのツケ
違いをしたかなどの話は別問題です)一方、昨今の事情から、もはや「権力A」は
「権力B」の敵ではないと見做されます。背後のネットワークがどのように繋がる
かは分かりませんが、ここから見えてくるのは「日本の三権分立」が単なる名目
レベルに貶められてしまったという現実です。そして、「政官の権力」、「経済
的権力」に次ぐ「第三の権力」と目されることがあるメディアも「権力A」に平伏
していることは周知のとおりです。

  事実上、これは日本で独裁型政権のレールが敷かれた(ヴィリリオの予見どお
り政権が横暴化し暴走した)ことを意味します。そして、この体制の中枢に居座
るのがニ・三世議員、すなわちパラサイト(寄生・世襲)型の国会議員たちです。
しかも、“批判能力”を失った主要メディアは、この「パラサイト(寄生・世襲)
政治家」たちの『国民的人気度』なるモノを煽り立てるための道具と化していま
す。このように悲惨な状況が一挙に進んだのは、やはり昨年9月の「郵政民営化
・参院否決→解散・総選挙」で小泉首相が平然と事実上のクーデタを成功させた
(憲法違反を犯した)ときです。つまり、大方の日本国民とメディアが「日本国
憲法」の役割を蔑ろにしたことのツケがまわった訳です。憲法には、主権者たる
国民のために「権力」に対して一定の縛りを掛ける役割(授権規範性)があるこ
とを忘れたことのツケです。これは、民主主義国家における国民の「基本的権利」
を死守するための大原則であったはずです。因みに、フランスの第五共和国憲法
では第一義的な原則として、国民の「基本的権利」を守ることを掲げています
(参照、下記資料★7)。
★『フランス憲法の原則』、
http://www.ambafrance-jp.org/IMG/pdf/constitution.pdf

  つまり、2005年9月の「郵政民営化・参院否決→解散・総選挙」以降に日本で
起こっていることは、まさにヴィリリオの予見どおりにユビキタス社会化しつつ
ある日本で「政治上の大事故」(民主主義政治の事故=小泉首相による憲法違反
と暴走、非武力的クーデター)が起こってしまったということです。更に、コト
が深刻なのは、もはや一部のブロガー、少数派のメディア、ごく一部の良識派の
国民意外は、このことをあまり深刻に考えなくなってしまったことです。更に、
本来であれば健全な批判勢力であるべき民主党と主要メディアの堕落ぶりは唾棄
すべきほどの体たらくです。その上、更に恐るべきことは、冒頭で概観したとお
りの「ベキ法則」の存在によって、日本社会の格差拡大が着実に広がっているこ
とです(参照、下記記事★7、★8、★9)。このように「政治上の大事故」によ
って打ちひしがれた日本の閉塞状況をブレークスルーするにはどうすべきなのか、
今こそ我われ日本国民の一人ひとりが真剣にこの問題を考えるべき時だと思いま
す。
★7 ブログtoxandoriaの日記『映画“オリバー・ツイスト”に見る小泉劇場
“劣等処遇原則”(格差主義)の原像』
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060227
★8 ブログtoxandoriaの日記『“国民の人身御供”を容認する“残忍な金融資
本主義国”、ニッポン』
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060221
★9 ブログtoxandoriaの日記『日本の“格差社会の拡大”を助長する“情報の
非対象性”の問題、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060315

  このような「政治上の大事故」(日本の民主主義の危機)に対する“リスク感
覚の無さ”こそが日本社会の「マニュアル&データベース化」を安易に許してし
まう原因であり、再びそれが原因となって一層日本の民主主義の危機が深まって
行くという、謂わば自縄自縛の悪循環の罠に嵌った姿こそが、今の日本の実像だ
と思います。また、「ベキ法則」の観点からペシミスティックに見れば、日本国
民の高々2〜3割程度しか「健全な民度を保つ国民」は存在し得ないことを知っ
ている、現在の日本政府は、これら少数の「まともな国民」と対話をする気が毛
頭なく、むしろ「動物化・家畜化しつつあって感情の作用が壊れたヘタレ・ショ
タレの国民」を標的にした「支持率アップの洗脳作戦」(B層ターゲット作戦)
にうつつをぬかしているのだから、もはや日本の民主主義は崩壊するままにして、
パラサイト(寄生)政治家どもの政権基盤が根腐れ病で自壊するまで放置するし
か術がないと見做すこともできるでしょう。しかし、小さな希望があります。そ
れは、アメリカとフランスで国民層の健全な部分として着実に定着しつつある
「アソシエーション」を日本で本格的に根付かせるということです。

  アソシエーションは、日本で一般化している用語で言えばNPO(非営利組織)
の活動形態に近いものです、しかし、日本のNPOの場合は官の天下りの受け皿に
なったり、あるいは暴力団の隠れ蓑であったりという具合で、法制面や社会的認
知という点で不十分な位置づけとなっているようです。ポイントは、株主利益な
どに対する気兼ねから社会貢献活動に縛りがかかる従来型の企業と違って、本来
のアソシエーション活動には、ユビキタス化する自由競争社会の「マニュアル&
データベース化」によって地域のつながりや生活空間を見失った人々をつなぎ直
す役割が期待できます。従って、これは、冒頭で述べたウエブ・ページのリンク
網を広げるのに役立つ「ネットワークのノード」に相当する働きが期待できる訳
です。また、運用次第でしょうが、このアソシエーションのノード機能には「ユ
ビキタス化した高度テクノロジー社会」の深化で分断され孤立化した人々の心の
つながりを、バーチャルではなく「リアルな現実社会」のつながりの中で取り戻
す作用を期待することもできると思われます。そして、アソシエーション活動で
最も重要なことはモノゴト(自然・社会・人間的な存在)の全てをカネの価値だ
けに収斂する「市場原理主義的」な発想から脱却することです。無論、おカネが
大切であるの当然ですが、丸太 一氏も述べていたとおり(★4)、我われが何
に絶望したのかを冷静に見つめ直すべきです。我われはおカネだけのために人生
を送っている訳ではなかったはずです。どうやら、複線的で多様なネットワーク
とノードづくりの工夫がヒントになるようです。

  なお、アソシエーションについての詳細は下記ブログ記事(★10)を参照し
ていただくこととして、以下にアメリカとフランスのアソシエーションの違いに
ついての説明を纏めておきます。
★10  ブログtoxandoriaの日記『“反CPEデモ”に見る、フランス民主主義の
“ど根性”』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060321

<注>フランスとアメリカのアソシエーションの違い

・・・アソシエーションは、NPO(Non-Profit Organization/非営利組織)型の
共同組織(結社、組合、協会、連合、合同、寄合、集団など)という意味では
フランスとアメリカで共通する部分がある。しかし、ヨーロッパ(EU型/戦後ド
イツ経済がモデル)の社会的市場経済(社会の下に市場経済を位置づける)と
いう文脈で実際の運用活動を見るとフランス型とアメリカ型のアソシエーショ
ンは似て非なるものとなる。ただ、アメリカのアソシエーションでも、1980年
代にサンフランシスコ周辺の“草の根活動”から発展してきたNPO活動には、フ
ランス型のアソシエーションに通じる部分が見られる。

・・・決定的な違いを見分けるためのキーワードを示すと「フランス=人格的
なコミュニケーション重視型のアソシエーション」、「アメリカ=規範・マニ
ュアルなどルール重視型のアソシエーション」ということになる。特に、エタ
ティスム(etatisme/国家管理主義/この理念による実際の指導がデリジスム(dirigisme))による修正資本主義の傾向が強かった近・現代フランスでは、
移民同化問題などの分野で生活世界の人間的な紐帯となる役割がアソシエーシ
ョンに期待されている。

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