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[2005.12.27、愚考三昧(toxandoriaの日記、Excite版)『小泉耐震擬装(偽造) 劇場』で亀裂が走る国民の意識構造]へのコメント&Res 2006.2.19 Commented by 岡田元浩 at 2006-02-18 12:57 x 瑕疵責任は本来建て付けとか雨漏りとか引渡し時に素人には検証困難な不具合 を補償するものです。耐震強度については、お客はヒューザーではなく「建築 確認」と云う公務を信じて契約したので、公務の刑事犯罪を民間の「瑕疵責 任」になすり付けるのは不当な拡大解釈だと思います。それをヒューザーの債 務としての破産宣告で自治体の賠償責任の追求を回避するのは不当でしょう。 詳細はヤフーで「技術立国への構造改革」を御覧下さい。 Commented by 岡田元浩 at 2006-02-18 13:05 x 「神聖なる建築確認」は公務であり、国民は国家を信用し其れを「取引証明」 として民事契約を行なう。耐震強度は民間の一級建築士でも計算できるが、精 度保証が付いていないので「取引証明」には使えない。「神聖なる建築確認」 とは「似て非なるもの」である。精度保証には「経済産業省」が監督する高度 な技術と器材と工程が必要なので、中小企業の多い土建業界には負担させず、 敷居値への合否の判定は自治体の責任で行なう。民間の計算した「似て非なる もの」をそのまま「神聖なる建築確認」に使っていたのがこの犯罪である。つ まり水道の水が消毒してなかったのと同じ。中毒事件が起きる迄バレない。 詳細はヤフーで「技術立国への構造改革」を御覧下さい。 Commented by toxandoria at 2006-02-19 岡田元浩さま、コメントありがとうございます。 比喩的に言えば、このように倒錯(相矛盾)し捩れた現実が日本中に広がって しまった背景には、原理主義的な新自由主義思想による「小さな政府」の呪文 に誑かされてきたことがあると思います。 大きい政府がベターなのか或いは小さくあるべきかなのかという理念上の問題 は、本来、個々の事例に応じて相対的な観点から論じるべき問題だと思いま す。にもかかわらず、現在の政府は恰も一定の絶対的スケールが存在するかの ように“擬装表現”して、政官の責任をスルーし続けている訳です。 また、防衛庁(及び同施設庁)等の官製談合も、喩えてみれば「天下り組織」 を安定的に・維持拡大(ステルス化)するための“擬装的手法”です。つま り、これも政官合作による巧妙な“擬装表現”です。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ [2006.2.17、映画『単騎、千里を走る』に見る『小泉劇場一座』の劣悪な品性] へのTB&Res TB to toxandoria <注>TB内容=「言葉と心:知と心:現代日本における情操・教養教育、想像 力の欠落」、http://ameblo.jp/renshi/entry-10009218892.html [コメント] toxandoria、 『renshiさま、TBありがとうございます。 ほぼ同感の思いです。 だいぶ前に阿部勤也氏(西洋中世史)など一部の学者さんたちが、“一見する と役立たずに見える幅広い教養”こそ人間の知的創造と倫理観育成の活力源で あり、21世紀の日本にとって重要なファクターだと指摘していたことを思い 出しました。 しかし、プラグマティックな日本社会一般の風潮がこのような“卓見”を軽視 し、大学のカリキュラムからも一般教養が排除されてどのくらい時間が経つで しょうか。今の日本は、そのツケが回ってきたのかも知れませんね。 しかも、新しい認知心理学分野の研究によると『人間の感覚器』は「対象情 報」(視覚の場合は“中心視の機能”=狭い範囲の対象へシャープにピントを 当てる正確な高分解能)と「関係情報」(同じく、視覚の場合では“周辺視の 機能”=眼を含む自らの身体と周辺環境との関係を“ぼんやり”とアバウトに 認識する機能)という「二種類の異なったルートで入手する外界情報」を利用 して、その「場」に最適な認識を確保しているようです。 これは、恰も「専門知識」と「一般教養」(或いはアバウトで幅広い雑学)の 関係に似ているような気がしております。』 |