メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:「サルのマスタベーション」化するマルチチュードの世界]へのコメント&Res  2006/01/14


[2006-01-12/「サルのマスタベーション」化するマルチチュードの世界]へのコメント&Res

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# kaisetsu 

『この「マルチチュード」の哲学的概念内容は、「「絶対的に差異化された集合体」を含有するとの説明が存在するように(参照:Hatena::Diarytry マルチチュード http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%de%a5%eb%a5%c1%a5%c1%a5%e5%a1%bc%a5%c9 )
多様な相互に不連続的な差異を持つ個人、集団世界の現出を背景に持っています。
これを、認識するか、認識できないか、無視するか、拒否するか、遠くで眺めるか、近くに接近するか、「没入」するか、他動的に組み込まれるか、目を塞いだまま食べられるか、突き落とされるか、現在の日本の思想状況は、この渾沌の中にあるように思います。

(参照)
不連続的差異論研究
http://blog.discontinuousdifference.org/
不連続的差異論講座 
http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/』


# toxandoria 

『kaisetsuさま、TB&コメントありがとうございます。

一瞬、TB&コメントの発信元(http://d.hatena.ne.jp/kaisetsu/20060113)が『toxandoriaの日記』ではないか?、と驚きました。

今日(1/13)は、たまたま券が手に入り、地元管弦楽団の演奏会でショスタコーヴィチを聴いてきました。指揮が大野和士、協奏曲のピアノ演奏者がシモン・トルプチェスキ(Simon Trpceski/マケドニア出身の期待のピアニスト)で、演目は「ピアノ協奏曲第1番」と「交響曲第5番」です。これに、異才の作曲家・江村哲二の「武満徹の追憶に/地平線のクオリア、オーケストラのための(2005)」(http://www6.ocn.ne.jp/~emura/njp20060106note.pdf、http://www6.ocn.ne.jp/~emura/)も演奏されました。

実は、ショスタコヴィッチのアコースティックな音色は殆んど聴いたことがなかったのですが、その澄明でダイナミックな音の響きに今までにない感動を覚えました。ショスタコヴィッチは、あまり楽器の音色を混ぜない原色配置であることが特徴とされているようですが、ソ連時代の作曲活動が混沌とビッグ・ブラザーも顔負けの超監視社会下での命がけの仕事であったことを思うと、想像力が刺激されます。案外、混沌のマルチチュードの中では、論理性とともに研ぎ澄まされた感覚が勝負になるのかも知れません。

ショスタコヴィッチの協奏曲のピアノを弾いたシモン・トルプチェスキはマケドニア出身ながら、ヨーロッパの高度に洗練された感性を身につけた若いピアニストであり、天才的な繊細さと卓越したパワーを兼ね備えているようです。時折、気のせいかアレキサンダーのような荒々しさを感じさせました。

江村哲二は武光徹に師事した人ですが、音大を出ないで作曲家になったというだけあって、やはり天才肌の音楽家のようです。「武満徹の追憶に/地平線のクオリア、オーケストラのための(2005)」は、演奏時間が約14分程の小さなものですが“クオリア”の題名どおりに、万華鏡のような色彩が無限の地平に広がるようなキラメキの質感を感じさせる素晴らしい作品です。

混沌のマルチチュードを生き抜くには、やはり芸術的な感性の助けも必要であることを思い知らされたような気がしております。』


# kaisetsu 

『もう暫く、会話の散策をさせてください。私は、13日の金曜日に見合った日を過ごしました。若干、冗談を交えています。

私も、時々、クラッシックを聞くことにしています。コメントを読んで、「江村哲二」さんに興味を持ちました。

さて、「音楽」という要素こそ、まさに、「不連続的」差異の共存と、「Aであり、且、非A」であり、「Aで無く、且、Bで無い」存在形式を楽しむ手法です。
それは、過去の残像を捉え様としつつ、未来を予期し、他の楽器や音声の違いを捕らえつつ、また、重なり合い、渾沌の中に整序がある存在形式です。(不連続的差異論では、このような状態を「メディア」(状態)と読んでいます。)

「論理性」も「感性」も、「感覚」も、小脳、大脳、間脳等の別は在っても、「存在認識」の方法だと思います。

ライス氏が良く使う用語に、「共通の価値」という言葉が在ります。
マルチチュード状況において、如何に、「共通の価値」を見出せるイマジネーションの能力、まさに、「知的」な勝負です。

音楽もまた、価値体系の一つであり、有効な手段だと思います。

私は、実は、「マルコビッチの穴」を見て過ごしました。
何度も見た映画なのですが、たまたま、事務所でスタッフが見ているのを横で眺めていて、感じることがあり、最後まで見てしまい、その後、再度、英語版で見てしまいました。

「はてな」のブログは、かなり前から在るのですが、まだ、活用していません。』


# 谷口硝子

 『姜 尚中氏の論考、読みましたが、やはり『マルチチュード』を読まなければ……。

>混沌のマルチチュードを生き抜くには、やはり芸術的な感性の助けも必要であることを思い知らされたような気がしております。

武満徹の『ノーヴェンバー・ステップ』のCD(ベルリンの教会で演奏されたの録音もの)を持っていますが、これは是非、生演奏で聞いてみたいものだと思っていました。作詞・谷川俊太郎、作曲・武満徹の『死んだ男の残したものは』は有名ですが、それらも含めた小室等の歌によるCD『武満徹ソングブック』の解説で、谷川俊太郎は武満徹は「歌う人」だったと述べています。

「歌う人」や「語る人」が、もっと自由奔放に活動し、それを聞いたり、読んだりする人が、それによって解放されるような気分が欲しいですね。「癒し系」CDも好きだけど、癒しを求めているということは、現代人が疲れているっていうことですからね。

音楽や映画(ハリウッド映画ではないもの)など、文化的な生活から遠ざかり、芸術的な感性がますます失われていく昨今です。』


# toxandoria 

『kaisetsuさま、コメント&TBありがとうございます。

凡ゆる芸術の中でも、ユニヴァーサルな意味での「クオリア伝達能力」を持つ音楽鑑賞こそが「不連続差異論」を分かり易く理解させてくれるように思いました。どこかで「メディア」(状態)と「クオリア」の意味するものが重なるかも知れませんね。絵画の場合は、音楽鑑賞よりノイズ情報(視覚情報の宿命?)の占める割合が多くなるので個人差が大きくなり、それが、より難しくなるような気がしました。

国民一般の才能に対して、できる限り機会均等のチャンスを与えるために、また日本の民主主義教育の深化ためにも音楽教育などの芸術と文芸分野の充実(日本の文化・芸術ルネサンス?)が必要だと思います。そうしないと、今後も「神格化したサルのマスタベーション」(=貧相な精神と野卑な魂胆の自分が、歌舞伎・オペラなどを見物する姿をひたすら大衆受けするようにパフォーマンス化して見せるだけの軽薄・短小な自作自演劇)が、のさばることになります。つまり、このような点について欧米と全く逆方向へ進みつつある(リベラルアーツを否定する)今の日本の方向性は根本的な誤りだと思います。

例えば、昨日、toxandoriaが演奏を聴いた地元の管弦楽団に新年度から着任する(これまでは外山雄三氏)新進気鋭の常任指揮者パスカル・ヴェロ氏(Pascal Verrot/1959〜)はパリ・ソルボンヌ大学で音楽学の学位を取得した人物です。これから、ラヴェル・ドビッシー・などの演目が予定されているので楽しみです。ともかく、ここにはリベラル・アーツ教育(七自由学芸(Trivium三学=文法、論理学、修辞学/Quadrivium四科=算術、幾何、天文学、音楽))の伝統の見事な結実が見られるようです。

おっしゃるとおり、『論座2月号』で朝日と読売の共闘の可能性が開けたこと(http://blog.kaisetsu.org/?eid=293541)は、日本の知的・政治的なフィールドにおけるヘゲモニー地図に大きな変化をもたらすのではないか、と思います。この波紋が広がることに期待しています。

「マルコビッチの穴」(http://mal-ana.asmik-ace.co.jp/fcast.html)は未だ鑑賞しておりませんが、日本映画の新作『博士の愛した数式』(http://hakase-movie.com/)を連想してしまいました。どちらも、ぜひ鑑賞したいと思っています。』


# toxandoria 

『谷口硝子さま、コメントありがとうございます。

表記、kaisetsuさまへのコメントで書いたとおりですが、toxandoriaも久しぶりの“アコースティックなクラシック鑑賞”で芸術的感性(とは言ってもtoxandoriaの場合はディレッタントという受身の立場ですが)の重要性を再認識したところです。谷川俊太郎・武光徹のCDも探してみたいと思っております。

ところで、最近、偶然に旧知の人物が見逃すことができないブログサイト『机の上の空、大沼安史の個人新聞』(http://onuma.cocolog-nifty.com/blog1/)を開いたことを知りましたので、ご案内しておきます。もう遥か10年以上前になりますが、某メディアに所属してい大沼氏は「湾岸戦争」を“従軍取材”したジャーナリストたちの一人です。初めて接したとき、非常に優れた知性・感性・行動力を兼ね備えたジャーナリストであると思いました。

このブログ・サイト『机の上の空、大沼安史の個人新聞』では、アメリカなど世界各地に潜むディープ・スロート情報を逸早く紹介しているので要チェックだと思っています。』

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