東京の戯夢人生
(東京)咫尺
十五年前、中国なまりを帯びた支離滅裂な日本語を携えて、
この慣れないけれどよく知っている東京という都市に足を踏み入れた。静かな夜、
テレビに映る外国映画(日本人は「洋画」と呼ぶ)の後で、テレビ画面にはいつも黒ぶち眼鏡をかけた白髪の老人が登場し、
にこにことテレビ画面の向こうから別れを告げた。「さよなら、さよなら、さよなら。」
この有名な映画評論家、淀川長治がこの世を去る前に残した名言が、「映画こそ人生」であった。
映画が本当に茫漠たる人生をそのまま反映したものならば、
映画館は人生の舞台と呼ぶことができるのだろう。混沌とした暗闇の中で、
席に坐って光の束が投げかけられる銀幕を見つめ、喜んだり、怒ったり、笑ったり、悲しんだり。
最後には感激して、あるいはやるせない気持ちで、あるいはうっとりして、この心奪われる場所を離れるのだ……。
運命に導かれたのか、東京で最初のアルバイトは映画と関係があるものだった。
そしてこの時期、池袋サンシャインシティのシネマサンシャインが自分にとって最も重要なよりどころとなったのである。
毎日日本語学校での勉強が終わるとシネマサンシャインに飛んでいき、
ゲームセンターにあるような古めかしいエスカレーターで九階の六号館に上がる。
これが「日課」である半日の掃除作業の始まりである。そこは多くの映画ファンにとって最も魅力的な映画館だと聞いていた。
しかし上映中は観客の興をそいではいけないので、作業員は中に入ってはいけないことになっている。
しかたなく入口に貼られた「青春残酷物語」「笛吹川」「裸の島」などのポスターを眺め、
また掃除のときにふと怪しい汚物を見つけて、この映画館の意味を何となくうかがい知ることができた。
何回も改修を重ねて、この映画館もすっかり姿を変えた。しかし今でも山手線で最も歴史が古く、
最も特色のある総合映画ビルと呼ばれており、池袋の繁華街の喧騒の中で不動の地位と尊厳を保っている。
夕日が東京タワーを赤く染めるある夕暮れ、中国北方から来た青年と南方から来た若い女性が、
連れ立って銀座の繁華街にある映画館の丸の内ピカデリーに入っていった。
青年は二枚のチケットを汗びっしょりの手に握りしめていた。それは彼が映画館の清掃の仕事をやめた後、
レストランの仕事で五時間ウエイターをした報酬であった。女性の心は乱れていた。
これは彼らが無言の別れをする前の最後の映画になるはずだったからだ。
映画はマルグリット・デュラスの「愛人(ラマン)」であった。
(つづく)
《逸飛視覚:東京》 より(本編集部で一部削除した。) |