メルマガ:風のひとり言――マスコミの裏を読む
タイトル:「風のひとり言――マスコミの裏を読む」第50号  2005/11/25


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         「風のひとり言――マスコミの裏を読む」vol.50
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□■□ 「風のひとり言」その50□■□-----------------------------------
「パキスタン大地震は何処へ?」
ワシントンポスト紙に見る
訴えと懸念

 ここ数カ月の間で、私はかなり不審に思うことが1つあります。世間ではい
ろいろ大きな事件も起こっていますし、政治の行方(特に予算審議)について
も皆さん無関心ではいられないでしょう。

 ただ、私が最も「解せない」と考えているのは、そんなことではありません。
この10月8日にパキスタンで起こった大地震について、当初は被害や救援活
動に関する報道が盛んに行われていたと思いますが、それがいつの頃かパタン
と止んだことについてです。「時間が経って救援体制が整ったからだろう」と
考える人がいるかもしれませんが、それは違うと思います。日本人にとっては
パキスタンがさほど身近に感じられる国とはいえないこともあるでしょうし、
これはマスメディアの責任もあることで、大きなニュースがあれば一気にそち
らに関心が移ってしまうことが原因です。パキスタンの国情や、災害地帯の険
しい形状、冬に向かう厳しい気象条件を考えると、もっともっと多くの人がそ
の実状を知って援助の手を差し伸べないといけないのに、決してそうなっては
いないのではないか?

 こんなことを考えていたら、世の中には同じようなことを思っている人がい
るのですね。たまたま「ザ・デイリーヨミウリ」の付録に付いていた「ワシン
トンポスト」紙を読んでいたら、11月16日の紙面に「援助の力が災害に及
んでいない」というタイトルのジョン・ランカスター記者の長尺の記事が目に
つきました。

 この方の記事の主旨は、私の考えと全く同じです。これは、この記事の例示
でも明らかにされていることですが、パキスタン地震への世界からの援助は、
昨年12月26日に起こったインドネシア・スマトラ沖地震の後の世界の対応
と比べると、際立った“格差”を見せているのです。

 この記事の中で触れられているように、国連の緊急アピールによって集めら
れたお金は、スマトラ沖の場合は約10億ドルに対して発生後3週間で80%
を集めたということです。一方で、パキスタン大地震の場合はどうだったのか
? 5億5000万ドルの目標に対して、3週間でわずか20%しか集められ
なかったとのこと。

 確かに、スマトラ沖地震は被災国が13カ国と広範に及び、20万人以上の
人が犠牲になった事実があります。タイのプーケットビーチを始め、名だたる
観光地も多く含まれていて、欧米の観光客数千人が巻き込まれたという事情も
後押ししたようです。特にアメリカ人のタレントや映画スターが、何百万ドル
も寄付をしたことは記憶に新しいところでしょう。

援助の決断はその必要性で
計られるべきだ

 ただ、実際には、ランカスター記者も記しているように、スマトラ沖地震の
エイド(援助)については十分過ぎるほどで、災害後に飢えや疫病で死んだ子
どもは1人としていなかったとのこと。むしろ、精神的ケアについて、各国も
それなりの体制整備や人的な援助等に腐心した格好でした。

 しかし、これはパキスタンでは全く事情が違ってきます。地震の後に何回も
テレビカメラがリポートしたように、食料、飲料水、テントの不足はそのまま、
疫病や寒さによる死亡につながってしまうのです(現在、その死者については
7万人以上に上るといわれる)。あの国の置かれている状況や、地理的、気象
的な条件を考えれば、すぐに分かりそうなことなのに……。

 これは、私の個人的な意見や感情などというものではありません。確かに、
これまでにも多くの医師団を始め、各国のボランティア、欧米諸国からの援助
があることは承知しています。しかし、ワシントンポスト紙に言うように「そ
の必要とする援助量には足りない…」のです。そのことは、もっともっと強調
されていい。

 また、私たち日本人にとっても、災害にはそのタイミングや見た目のアピー
ル度だけは計れない、内実というものがあることを良く理解することが求めら
れています。ポスト紙の記事でも、災害への国際社会の反応は「ドナー、つま
り国家や企業、個人の決断が、現実の必要性という尺度より感情やタイミング
により左右されている」ことは、端的な事実であると述べられています。

 しかし、今回はそんなことに惑わされず、本当に必要な援助(エイド)をパ
キスタンの人達にしなければならないのではないでしょうか。これは、絶対に
そうだと思う。今回は、全くのホンネのひとり言ですが……。

□■□ 後書きのつぶやき□■□----------------------------------------
「なぜそんなに急ぐのか」

 最近、非常に感銘を受けたエッセイがあります。全くの偶然に、箱根の成川
美術館という場所で、展示会場の片隅に置かれていた雑誌『サライ』(05年
11月前期号)と、収載のエッセイ「急ぎ足」を読む機会がありました。

 著者は画家の堀文子さん。この会場にも数点の作品があり、その作品紹介と
ともにエッセイが掲げてあったのです。私も不明ながらこの女流画家について
知らなかったのですが、大正7年生まれの87歳。日本画家として「上村松園
賞」も受賞なさっている有名な方のようです。

 それはともかくとして、その文章には思わず「ウーン」とうならされました。
「急ぎ足」の主旨は、JRや地下鉄にあるエスカレーターの使われ方やその意
味について、堀さんの目から問いかけているもの。つまり、もともとエスカレ
ーターは、お年寄りや障害を持つ人のものではないかというのです。エッセイ
に言います。

 「……重い荷物を右手に持ちかえ、ふらつく私の右側を、男達がドカドカと
駆け上って行く。隣にある立派な階段には目もくれず、元気な若者がなぜ、エ
スカレーターを走って上るのか……」

 元来、階段を使えない人のためにある筈のエスカレーターに「東京では左側
に乗れという規則があるのがおかしい」と堀さんは言います。文章にもあるよ
うに、エスカレーターの左側でおびえる老人をしり目に、右側を駆け上る癖を
止めない人々の不思議を思うと……。

 私は考え込んでしまいました。私自身、エスカレーターの右側を駆け上るこ
とはままあるからです。しかし、言われてみればそうした“視点”があって決
してオカシクない。むしろ、本来はその主張が当然と考えられるべきなのでは
ないか――。ますます自分の不明を恥じることになりました。自分だって以前
は「なぜいい若い者が、空いている階段を使おうとしないのだろう」などと考
えていたのです。しかし、どうも周りの雰囲気に流されて、そうした状況を半
ば当然と受け入れてきてしまっていました。

 堀さんはこうも言います。「一分や二分の遅れが何だ。次の電車を待つのが
敗北だと思うのだろうか。…」。確かにそうですね。こうした日本人の性(さ
が)が、世界に冠たる経済大国を作り上げたことは認めましょう。しかし、一
方で失ってしまったものも数多いのではないでしょうか。

 老人になりかけている人間として、“中途半端な日本人”であることを翻っ
て恥じることの意味を、教えられたような気がします。私たちは急ぎ過ぎてい
るのです。

追伸:急な話になりますが、私が非常に親しくしている書道家の諏佐玄麟氏が、
写真家の岩井献之朗氏と組んで、世界最大サイズの実写版掛け軸を作ろうとい
う試みを計画しています(年内に行うとのこと)。ギネスブックに挑戦するの
だそうです。私も親しい方なので、できる限りの応援をするつもりです。

 興味のある方は、http://www.kansai-hc.jp/をご覧の上、サポートをお願い
したいと思っています。私のホームページ掲示板にも案内があります。

  小春日の庭も小道も花の鉢(岡本まち子)


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