メルマガ:週刊フランスのWEB
タイトル:hebdofrance 25-07-2005  2005/07/25


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                                    Davide Yoshi TANABE
                                         vous presente

              ≪週刊フランスのWEB≫
                    第228号

Tokio, le 25 juillet 2005

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Index (目次)
        1.パリのメトロ ノマンクラチュール(1)
        2.シャンソン ピアフ 「愛してやまず」
        3.忘れられたフランス人  デュ・シャトレ侯爵夫人
        4.あとがき

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す。

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1.Metro de Paris, nomenclature
  http://www.ratp.info/orienter/plans.php#

 パリの地下鉄の駅には随分と不思議な名前がある。そこで1号線からその起源を
辿ってみたい。

 先ず上記RATPのサイトからLe Plan du metro(地下鉄路線図)をダウンロードす
る。
1号線は地図の左上La defenseからCharles de Gaulle Etoile(凱旋門)、Hotel de
Ville(市庁)を通って右手のChateau de Vencennesまでパリ市を横断する。1900年7
月19日パリ市の最初の地下鉄として開通した。当時はPorte Maillotが始発(終点)
であった。 トンネルや橋などの工事はパリ市が負担したが運営はベルギーのアンパ
ン男爵Baron Edouard Empainの会社CMP(Compagnie de chemin de fer
Metropolitain de Paris)があたった。建設計画は1897年に始まった。工事責任者は
ポリテク出身のエンジニアで今日「地下鉄の父」と言われるビアンヴニュFulgence
Bienvenue(1852-1936)である。 アンパン男爵はベルギーの鉄道王で、フランス、
スペイン、ロシア、エジプト、コンゴ、中国等で鉄道事業を展開している。アンパン
は男爵といっても、貴族の出ではない。爵位はベルギー王レオポルドが与えたもので
ある。むしろ貧しい階級の出身であるが、偉才の持ち主に違いなく、晩年にはエジプ
トはカイロの郊外に都市、近代エリオポリスHeliopolisを建設してしまった。アンパ
ンについては別途書く機会もあるかもしれない。
 1903年には南北を貫く現在の12号及び13号線が開通している。

 さて、アルジャンティーヌArgentine駅。南米の国アルゼンチンからきている。ア
ルゼンチン通りrue Argentineが近い。しかしこの道はわずか80mの短い通りであ
り、命名も1947年と比較的新しい。それ以前はオブリガード通りrue d'Obligadoと呼
ばれていた。オブリガードは勿論ポルトガル語で「ありがとう」ということだが、何
故オブリガードであったのかわからない。1868年以前はさらにラ・プルーズ新道rue
Neuve de la Pelouseであった。これはこの年区画整理が行われ、ラ・プルース通り
にサイゴン通りが貫通して名称をオブリガード通りと別けたためと思われる。アル
ジャンティーヌ通りには、今は引越してしまったが以前アルジェリア領事館があり、
随分とvisaをとるために通った。またその近くにホンダの店があり、僕がはじめて車
を買ったJapautoという店があった。

 ここでわかったことは当時、パリの各区には今のように無味でつまらない番号制、
1区から20区などではなく、たとえば16区はパシPassy区と呼ばれていたことである。
東京は麹町区などはなくなったが、少なくとも番号制になっていない、町名制に問題
はあるが、この方が情緒があるだけでなく歴史を大切にしているといえる。

 「あとがき」で書いた今回のパリでの僕の宿があった地区は、モンマルトル区で
あった。arrondissementを現在「区」と訳しているが、commune de Passy、commune
de Monmartreであった。モンマルトル区を今日、9区、18区とは味気ない。

 メトロ駅の薀蓄を暫らく続けてみたい。

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2.Edith Piaf
  Le droit d'aimer
  Paroles: Robert Nyel. Musique: Francis Lai   1962


Qu'ils se levent ou qu'ils meurent,
Ces soleils rouges ou gris,
Et que tournent les heures
Et que passe la vie
A la face des hommes,
Au mepris de leurs lois,
Jamais rien ni personne
M'empechera d'aimer.
J'en ai le droit d'aimer.
J'en ai le droit.
A la face des hommes,
Au mepris de leurs lois,
Jamais rien ni personne
M'empechera d'aimer.

昇ろうと沈もうと、この赤い太陽が灰色の太陽が、時が刻もうが 人生が過ぎようが
 公然と、人の掟に背いても、何も何人もわたしの恋をとめられない。わたしは恋す
ることができる。できるのよ。公然と、人の掟に背いても、何も何人もわたしの恋を
とめられない。

A souhaiter des noces
Comme celles des gosses
En age de l'amour
Je l'ai voulu, ce droit !
Par des matins d'ivresse
Et des nuits de detresse,
Luttant pour cet amour,
Je l'ai conquis, ce droit !
Par la peur de tout perdre,
Au risque de me perdre,
Pour que vive l'amour,
Je l'ai paye, ce droit !

結婚式を望んで まるで子供たちの結婚式のように 恋の季節の わたしは望んだの
よ、この当然のことを! うっとりとする朝も 苦しい夜も、この恋のために戦っ
て、勝ち取ったのよ、この権利を! 全てを失うことを畏れて、破滅するかもしれな
いのに、恋が成就するために、償ったのよ、この権利を!

Bien que le temps n'efface
Ni les deuils ni les joies,
Quoi qu'on dise ou qu'on fasse,
Tant que mon coeur battra,
Quelle que soit la couronne,
Les epines ou la croix,
Jamais rien ni personne
M'empechera d'aimer...
J'en ai le droit d'aimer.
J'en ai le droit...
A la face des hommes,
Au mepris de leurs lois,
Jamais rien ni personne
M'empechera d'aimer...
De t'aimer...
D'etre aimee... D'etre aimee...

時は消さない 悲嘆も喚起も、誰がなんと言おうと何をしようと、わたしの心臓が脈
打つ限り、王冠だろうと棘(いばら)いや十字架だろうと、何も何人もわたしの恋を
とめられない。わたしは恋することができる。できるのよ。公然と、人の掟に背いて
も、何も何人もわたしの恋をとめられない、、、あなたが好きよ、、、愛された
い、、、愛されたいの、、、

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3.Madame la marquise du Chatelet 1706-1749
  (Gabrielle Emilie Le tonnelier de Breteuil)
  http://www.memo.fr/article.asp?ID=VOL_U40_020

 ある友人から川島慶子著『エミリー・デュ・シャトレとマリー・ラヴワジエ 18世
紀フランスのジェンダーと科学」(東京大学出版会、2005年、税込み2.940円)を推
薦された。6月の区立図書館には検索したが蔵書がない。そこで購入を申し込んだ。
帰国後世田谷中央図書館が買ってくれたことを知った。好著であるから図書館として
所蔵しても問題ないと判断されたのであろう。有り難いことである。

 エミリ・デュ・シャトレ侯爵夫人はヴォルテールの愛人として有名だが、哲学者、
科学者、文学者としても一流の女性である。エミリはブルトゥイユ男爵の娘であるか
ら、生粋の貴族。

 先ず人名の表記問題からはいる。川島は「エミリー」、「マリー」と長母音を用い
る。僕は何度も本誌で繰り返してきたが、フランス語に長母音は基本的に存在しな
い。発音されているようにカタカナ表記して欲しいということである。基本的にとい
うのは、ある条件下で長母音となることがありうるということである。たとえば
Louiseはルイズでもルイーズでもいいだろう。また、ラヴォワジエ夫人であるが、
prenomはMarie(-)Anneつまりマリアンヌであって、マリと略されることはない。本文
中では「マリー・アンヌ」としているのにタイトルでAnneを削ってしまったのは理解
ができない。

 デュ・シャトレ侯爵夫人の時代またラヴォワジエ夫人の時代もサロン華やかなりし
時代である。サロンなくしてフランスの、いやヨーロッパの文化はなかった。サロン
を主催したのがこうした夫人たちであった。夫人たちが、さして教会との道徳的問題
もなく文学者、哲学者、政治家たちを恋人にすることもできた時代である。しかし、
それがジェンダー問題として、性の平等から生まれたものではないことは当然であ
る。社会は男のものであった。

 デュ・シャトレ侯爵夫人はニュートンIsaac Newtonの『プリンキピアPrincipia』
(原書はラテン語、したがって英語版も翻訳されたもの)のフランス語の翻訳をし
た。ただ、翻訳しただけでなく、コメントも書いている。700ページにもなる大著で
ある。その全文がネットにある(国立図書館のGallicaのサイト)。
Principes mathematiques de la Philosophie naturelle
http://visualiseur.bnf.fr/Visualiseur?Destination=Gallica&O=NUMM-29037
 残念ながらエミリの死後発行されたものであるが、その経緯がはじめにかなり詳し
く書かれている。Gallicaの『Principes』は1990年の復刻版であるが、文章は1759年
の修正版(初版は1756年)そのもので、多少綴りが現代と違うが、慣れれば文法的に
は殆ど全く変化がないから(これはモリエールに感謝しよう)、読むことが出来る。

 『プリンキピア』を原文で読んだひとはどの位いるのだろう。フランス語翻訳序文
にもあるように、ニュートンのラテン語に曖昧さがあるようだから、フランス語版の
方が明解かもしれない。それにしても日本語に翻訳したのは誰なのだろう。そしてそ
れは英語版からの翻訳ではないのか。ニュートンや『プリンキピア』の解説書はある
し、多くの学者が引用しているが、どうも読んだ学者は日本にいないのではないかと
怪しまれる。ラッセルは読んだろう。しかし、

 デュ・シャトレ侯爵夫人は少なくとも『プリンキピア』全文を読んだし、解説まで
つけている。エミリの語学力、物理の知識は勿論ヴォルテールもかなわない。夫人に
はそのほかにも物理学教科書を著すなどの業績がある。

 川島が科学史専門家として、18世紀の卓抜した女性科学者に焦点をあてジェンダー
問題と結びつけた視点はオリジナルである。しかし、エミリもマリアンヌも男の社会
の極めて女性的な役割を担い、遂行していったのであって、女性の権利を一般的に高
めた運動家ではない。

 今日の日本を見ると、女性の地位が上がったようにみえるが、社会的意識、習慣、
道徳はむしろ逆行しているといわねばならない。たとえば結婚観にしても、離婚が増
えたことが女性の権利の向上の象徴にはならない。むしろ、日本男性社会は、結婚願
望を日本女性に植付けることに終始し成功している。

 デュ・シャトレ侯爵夫人やラヴォワジエ夫人よりも、もっと市井の女性たちの革命
がなければジェンダー問題は空論でしかない。が、一般的に日本女性は、男に作られ
ることに安住することの方を選択しているようだ。戦後、靴下は強くなったが、女性
は少しも強くなっていないというのが僕の実感である。

 フランスの旧植民地アルジェリアの女性作家ジュバールAssia Djebarが先月アカデ
ミー・フランセーズ会員に選出されたことを付記しておく。

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4.あとがき

 本誌発行最終段階で、サーヴァーの不具合が発生して月曜日発行が危ぶまれた。幸
い1時間ほどで回復。発行に漕ぎつけた。ひやっとした瞬間であった。

 読者のピエール・石橋さんが今年も花火大会に招待してくれます。8月6日土曜日。
待合せはJR検見川浜で13時半。ヨットを14時に出してくれます。17時帰港。この時か
らの参加も可能です。花火はヨットハーヴァーから。初めての方もご遠慮なく。詳し
くは僕にメイルを。多数のご参加をお待ちしております。

 パリから戻ったというのに報告がすっかり遅れました。カンパしていただいた方々
に先ず感謝申し上げます。今後とも宜しく本誌応援をお願いいたします。

 さてパリである。6月23日に入ったのだが、酷暑であった。湿気がないとはいえ連
日30度から35度の暑さ。23日、空港に着いたときもそうだが、ほぼ毎日夕立が降っ
た。それでもよく歩いた。初め足に肉刺(まめ)が出来たが、それを潰して歩いた。
しかし、どこのミュゼにもモニュメントにも行かなかった。パリは街全体がミュゼで
ある。

 僕の宿はロディエ通りrue Rodierにあった。ホテルというよりホステルauberge de
jeunesseである。何しろ安い。一泊22ユーロ。4階建ての普通の建物で、各階に4部屋
しかない。部屋には4ないし6つのベッド。シャワーととトイレが廊下の奥にあり内庭
に面している。同じ部屋に男子と女子が混じることもある。初の体験であった。

 さすが若い人たち、バクパッカーの若者たちであふれていた。世界各国から来てい
た。メキシコ、USA、カナダ、スペイン、ウルグアイ、ブラジル、アルゼンチン、
チリ、中国、韓国、そして日本。日本からの若者が意外と少なかった。日本からの人
たちと同室になることはなかった。少なかったと見えたのは、1階のレセプション兼
朝食堂兼サロンに降りてきて話をする日本の人が殆どいない所為かも知れない。こう
した宿の面白いところは、様々な地方からきた人々との会話や議論なのだが。言葉は
さして重要ではない。もっとも、同室になったチリの青年が、フランス語が不得意
で、英語も余りよく分からず、僕が「Entonces, hablamos en espanol」といった
ら、余程ストレスがたまっていたのだろう、目を輝かせて「参ったよ、スペイン語で
ここ数日話してないんだ、スペイン語分かるの」とまくしたててきた例もあったか
ら、言葉が不自由なことは不利にはちがいないけれども。青年は同室にメキシコ人が
いることが後でわかって多いに安心したようであった。

 ロディエ通りはモンマルトルの丘の中腹に位置する。アンヴェール公園Square
d'Anversの南から始まって485mの下り坂になっている。アンヴェールとはベルギー
の都市アントワープのことであろう。最寄のメトロ駅がやはりアンヴェールになる。
地下鉄2号線(Porte Dauphine - Nation)である。アンヴェール駅はロシュシュアー
ル大通りBoulevard de Rochechouartにある。ここからパリを見渡すサクレクール大
聖堂に上る。ロディエは19世紀のフランス銀行(中央銀行)の副総裁の名前だそう
だ。ロディエと呼ばれる集合住宅地区cite Rodierがあった。ロシュシュアールは、
モンマルトル修道院に属していた女子修道院の院長Marguerite de Rochechouart de
Montpipeau (1665-1727)からきている。女性の名前がついた大通りはパリでも珍し
い。1717年からその死まで修道院長を務めたのだが、大通りとして名前が残ったのは
偶然のようだ。1740年にロシュシュアール通りrue Rochechouartが出来たときは、舗
装されていない泥道であったがその後の都市改造で大通りとなったのだから。

 上記のシテciteの概念は面白い。パリに限らず日本の外では、住宅の番地は通りに
つけられている。日本では面としての町に名があり、番地は通りとは結びつかない。
銀座通り何番地という番地はない。しかし、パリでもシテとなると町を表したのでは
ないだろうか。辞書には様々な意味が書いてあるが、これは仮説である。Cite
Condorcet、Cite Malesherbesなどが宿の近くにある。離れるがCite Universaire
(大学都市)もしかりである。

 宿の斜め向いに小さな本屋がある。本屋といっても、新聞や雑誌とごく僅かの単行
本を置いているだけである。奥にいかにも本屋の主人といった寡黙なオヤジがいる。
僕はほぼ毎朝新聞を求めた。最近のル・モンドの論調に満足していないのでリベ
(Liberation紙のこと)を買ったのである。その店で、Onfrayの本があるかどうか尋
ねた。当然ながらそこにはなかったが、近くの比較的大きな本屋を紹介してくれた。

 ロディエ通りと交差するコンドルセ通りrue Condorcetを左に折れ、現在パリ商工
会議所のトレーニング・センター(旧商業高校)の前を過ぎて、マルティール通り
rue des martyrsと交差する小さな広場に至ると、本屋「Librairie Atelier9」が見
えた。マルティール通り59番地である。紀伊国屋やカルティエ・ラタンのジルベール
のように大きくはないがこの下町としてはなるほど大きめな本屋である。この店には
滞在中に3度ほど足を運び、Onfrayの近著『Traite d'atheologie』、Dai Sejie『Le
complexe de Di』やフーコ、イオネスコ等の本を購入した。ある日、店員の少年に本
が好きかと尋ねると「大好きです、Monsieur」と答えた。僕は気分が晴れ晴れとし
た。

 コンドルセは18世紀の哲学者コンドルセ侯爵marquis de Condorcetの名からきてい
る。コンドルセ侯爵はフランス革命の犠牲者となり、獄中で毒をあおり自決した。本
誌127号(2002年6月3日)で取上げている。
http://www.saturn.dti.ne.jp/~davidyt/log127.htm
この号を読み直した。なかなか面白いことを書いたものだ。自画自賛。しかし、僕の
考えは当時と現在と変わっていない。

 マルティールとは殉教者のことであるが、この通りを上っていくとモンマルトル
Motmartre即ちMont des Martyrs(殉教ヶ丘)に達するのである。史実であるかどう
かは怪しいが聖ドゥニSaint Deni及び彼の仲間が斬首された丘だからである。

 しかし、一方この丘の採石場から石膏がとれたそうで、石膏が運び出された為に通
りが白くなった。そこで有名なキャバレー「ムーラン・ルージュ」があるメトロ駅の
名前、駅のある広場、またモンマルトルから下ってくる通りもブランシュBlanche
(白の女性形)となっている。

 ブランシュ駅から急坂になっている通りがルピック通りrue Lepicである。この通
りには画家ヴァン・ゴグ(ゴッホVincent Van Gogh)が一時住んでいた。坂の途中左
手にカフェ・デ・ドゥ・ムランCafe des Deux Moulinsがある。ジュネJean-Pierre
Jeunet監督作品で日本でも成功した映画「アメリー」(原題はLe Fabuleux destin
d'Amelie Poulain、アメリ・プランの素晴らしい運命、2001年)の舞台となったカ
フェ。ここを今回の旅の目的の一つでもあるパリのホームレス支援NPO、Les Bancs
PublicsのVivianeさんが指定したのである。僕はこの店のテラスに陣取っても、まる
で「アメリー」で登場した店とは知らなかった。6月25日のことである。

 後日、このカルティエを歩いていて、再びこのカフェに入った。店内に入ってアイ
ス・コーヒーcafe frappeを注文した。高いなぁ。4ユーロ。横でTV局であろうかイン
タヴューを収録していた。電話をする目的もあって入った店であったが、電話ボック
スはないという。パリも完全に携帯電話の時代になっていて、カフェから電話する人
もいなくなってしまったとみえる。ジュトンで電話していた時代を懐かしいとも思わ
ないが、携帯を持たない人間には不便になったものである。そういえば、公衆電話も
コインでかけるシステムは殆どなくなり、カード式になった。盗難防止のために違い
ないが、ではパリの公衆電話が通じ易くなったかというとそうでもない。宿の電話は
2社入っていたが、いずれも不通であったし、リヨン駅の公衆電話は、クレジット・
カードでかけられる建前であったが、実際ジュネーヴにかけて通じたのは5台目で
あった。携帯電話がソウルほど安ければ、パリの空港でレンタルしたのだが、そうし
なかったのは失敗と言うべきだろう。僕は携帯を時計およびメモ帳、スケジュール管
理にもつかっているので、PCのUSBで電池チャージが出来るようにして携帯していた
が、通話ができない。フランスにもvodafoneがあるというのに。英国に留学していた
という同室になった中国大陸のMademoiselleの携帯は、カードを代えるだけで通話で
きていた。特殊な機種にするのではなく、世界中何処でも使えるシステムを採用しな
かった日本の各社は一体何を考えているのだろう。

 ロディエ通りをぶらぶらとそぞろに降りて行く。長い長い下りである。広いモブー
ジュ通りrue de Maubeugeに出る。右に折れて暫らく行くとコシュ広場Place Kossuth
がる。Louis Kossuthは1848年、失敗に終ったハンガリア革命の英雄の名前。ロシア
と手を組んだオーストリアによってハンガリアの独立が阻まれた。この広場でフォ
ブール・モンマルトル通りrue du Faubourg Monmartreをとりながら直ぐに交差するラ
・ファイエット通りrue de la Fayetteで、真っ直ぐに南下するドルオ通りrue
Drouotに入る。この通りにはたくさんの切手収集philatelieの店が建ち並んでいる。
30軒以上ある。左手の9区の区役所を過ぎてモンマルトル大通りBoulevard Monmartre
を横切ると、名前が変わって990mという長いリシュリユ通りrue de Richelieuであ
る。リシュリユは公爵にして枢機卿、ルイ13世の首相。この通りはリシュリユの宮殿
であり、今日も首相官邸であるパレ・ロワイヤルPalais Royal迄続く。リシュリユ通
りの中ほど左手に小さなルヴォワ広場Square Louvoisがあり、右手に膨大な国立図書
館Bibliotheque Nationale(BNF-Richelieu)がある。ミッテランがセーヌ川岸に
作ったこれまた膨大にして超近代的な国立図書館、別名ミッテラン図書館
Bibliotheque Francois Mitterrandとは違って、1721年に始まる長い歴史を誇る図書
館である。ルヴォワ広場には1820年に取り壊されてしまったが、オペラ座があった。
国立図書館を過ぎるとモリエールの坐像がある。噴水の水は流れておらず、メンテナ
ンスが悪い。やはりモリエールには敬意を表さねばならない。リシュリユ通りから分
かれて短いモリエール通りを行きオペラ通りAvenue d'Operaに辿りつく。

 モリエールといえば、アンヴェール駅の北側、サクレ・クールに上り初めて、ロ
シュシュアール大通りと並行しているオルセル通りrue d'Orselを散歩中、古本屋の
店頭でモリエールの本が他の本と一緒に1ユーロという特価で売られていた。Le
medecin malgre lui、L'avare、Les femmes savantes、Le malade imaginaireなど有
名な作品があった。表紙も本文や写真も黄色く変色していてまさに古本という趣も
あって、そそられたが買わず仕舞いにしてしまったのは残念である。このオルセル通
りのレストランで、帰国する日の昼にblanquette de veau(小牛のホワイトソース煮
込み)を食した。僕の大好物である。この手の料理が東京ではなかなかない。家庭料
理である。

 閑話休題。オペラ通りを左に折れる。

 続きは次号。
 更に、フランスのホームレス訪問記、S君の学位試験の試験官結果、パリの食事、
南米政治を論議したカルロスとのこと等々も次号以下としたい。

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