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多津蔵と紀元節(建国記念の日か?)は、意外に深い結びつきが在ります。 二月の十一日に、命名式の祝詞を上げて頂いたのです。 神様は、学問の神様の太宰府天満宮です。 此の神を選んだのは、”梅”なのです。 道真の梅に託した思いは、多津蔵の思いと重なるのでした。 遠き西の彼方に移り住んだ情況と、思いを都に抱いた姿は同じなのです。 何故?多津蔵が、遥か彼方の国に工房を構えたのかは、既に語られています。 此処では、一点だけ付け加えておきましょう。 其れは、望んで遣ってきたと云う事なのです。 此の『望んで』が、その後の展開に、大きな意味を持ちました。 もしも、嫌々でしたら、多津蔵は既に存在を致していません。 何故なら、都から、とんでもなく離れているからなのです。 都会で生まれ、都会で育った人には、田舎の生活は耐えられません。 それ程に、生活の有り様が異なるのです。 只、『望んで』遣ってきた訳ですので、半端では帰れなかったのです。 多津蔵物語の最初は、涙、涙の、連続でした。 其の涙が、喜びに成る迄には、多くの時間の積み重ねが必要でした。 多津蔵が工房としての体を為すにも、時間と労力が要りました。 春が過ぎても、工房は、其の姿すら示せなかったのです。 形を成すのは、夏の便りが届く頃でした。 しかし、まだまだ楽しめる処までは達しませんでした。 多津蔵が劇的に変るのは、秋なのです。 実りの秋とは、上手く言ったものです。 多津蔵も十月の風の便りと共に、工房らしい姿を確立致しました。 多津蔵物語のキーワードは、”手仕事”、”お花”、”暮らし”なのです。 此の三点が、上手い事噛み合ったのが、十月だったのです。 秋が過ぎ冬の訪れと共に、多津蔵は、暮らし向きまでもが整っていきました。 其の道程の出発点が、今日の紀元節の祝詞だったのです。 朗々と読み上げられる響きのなかに『たづくら』の言葉を聞いた時の感動は、 主宰の胸に、今も深く刻み込まれているのです。 多津蔵物語を語る時、此の祝詞の響きを忘れる事は出来ません。 多津蔵が、世間で初めて認知をされた、誕生の瞬間だったのです。 今年の祝詞は、もう少し先に上げられる事でしょう。 文責 田鶴彦乃蔵人 |